34.
 
              やけに深刻な顔でお祖父ちゃんが入院を強要するのに、あたしは逆らわなかった。
 
              っていうか、帰ってもすることないし、近くに近衛氏がいると思うと落ち着かなく
 
              てね。
 
              ここなら、誰もいない。
 
              どうしても意見が食い違っちゃうダンナさんも、気遣わしげな視線を絶えず投げて
 
              くる家族も。快適なんだ、これが。
 
              一晩、じっくり考えることもできたしね。
 
              近衛氏は、真実を話してるけど嘘をついてる。
 
              真知子さんに示していた親切には、確かに既成事実は伴わないだろうけど、その時
 
              彼の心は某かの秘密を抱いていたんだ。
 
              あたしには悟られてはならない感情。
 
              それが恋愛感情なのか、罪悪感なのか、近衛氏が説明してくれなきゃわからない。
 
              だから、一つ賭をしよう。
 
              とっても不利で、フィフティフィフティどころか1割弱の勝ち目しかないけど、ど
 
              のみち近衛氏と来た2年は危ない橋を命綱なしで駆け抜けたようなもの、負けても
 
              悔いはない。
 
              きっと泣くけど…泣いてもなんとかなるわよ、楽天主義があたしの信条だもん。
 
              心を決めたのは明け方で、ほとんど眠ってないはずなのに不思議と眠くはなかった。
 
              ここ数日のどんより重い気分と頭を考えたら、かえってすっきりしてるくらい。晴
 
              れ渡った頭は澄んで、一年先でも見通せるよ〜。
 
              どっからでも、こい!ってもんだ。さあ、さあさあ!
 
              「…また…その…どうしたの…?」
 
              朝食後待ち望んだ近衛氏の登場に思わず絶句。
 
              だってさ、覚悟してたのは通常モードの近衛氏に会うことで、こりゃ予想外。
 
              目の周りのアザとか、切れて晴れ上がった口元とか、ボクシング世界戦後の敗者イ
 
              ンタビューじゃないんだよ?左半分が人外の者になっちゃって…生でこの手の傷を
 
              見るのはちょっと、やばいわ〜気分悪くなってきた。
 
              「ちょっと、ね」
 
              憐れみが瞳に出きっちゃってるであろうあたしを痛々しい笑みで誤魔化すと、近衛
 
              氏は簡素な丸椅子の前で躊躇する。
 
              それは随分久しぶりに見る表情、きちんとこっちの感情を推し量って、気分と機嫌
 
              を確かめる魔王様のわかりにくい気遣い。
 
              「…どうぞ?」
 
              小さな仕草付きで着席を促すと、神妙な顔で頷いて枕元に近衛氏が落ち着いた。
 
              …なんというか…その、間近で見るとホントひどい傷。奇妙に大人しいせいで、貧
 
              乏くさいというか、みすぼらしさまで追加されて、正視に耐えない。
 
              顔が売りなのに、性格破綻してる彼には綺麗な容姿が必要不可欠のファクターなの
 
              に…たまに優しいとことかあるんだけど、やっぱり見かけは大事なわけで。ドキド
 
              キするくらい気障なこと言っても、のっかてるお顔の美しさで様になるわけで。
 
              つまり近衛氏をこうした犯人は十中八九、お祖父ちゃんと先輩なんだろうと読める。
 
              お祖父ちゃんはきっとあたしの代わりに怒ってくれて、自分でやったかどうかはわ
 
              かんないけど一発殴ってくれたんだろう。
 
              先輩だってもちろん隙を突いて、好機を計ってもしかしたら数発殴ってくれたと思
 
              う。
 
              顔が好きなら、その要素が消えた近衛氏でもいいのかメッセージを込めて。
 
              先輩がお茶のみに家に来てた時ね、茶菓子代わりに『彼の一番好きなとこ』って話
 
              になったことあるの。浮気疑惑で怒ってたのもあるんだけどつい『綺麗なとこ』っ
 
              て言っちゃったんだよね〜…2人とも、覚えてたのか…。
 
              ともあれ、いずれ衰える容姿なんかこの際問題ではない。
 
              インパクト強かったから、思わず脱線しそうになっちゃったけど、あたし達の間に
 
              吹いてる風は今、エベレストのやまおろし並に冷たいんだ。そのはずなんだ…けど。
 
              「体は、平気?」
 
              この前に見せた態度といい、明らかに弱気と取れる声で呟かれるお気遣いといい、
 
              この人変だよ。
 
              昨日、一体何があったの?!おかしな物でも食べた?お祖父ちゃん達の脅しが効き
 
              過ぎた?悪魔な性格が欠片も見えない近衛氏なんて、気味が悪いんだけど…。
 
              「平気、だけど、何?一体どうしたの。昨日までの態度はどこ行ったの?」
 
              同情も情けもかけてやる必要全くない罪人の筈なのに、あまりに気の毒でつい聞い
 
              てしまった。
 
              幾分血の気の引いた顔を覗き込んだりしながら。
 
              「反省したんだよ。早希を疑ったり、責めたり、本当にごめん」
 
              「え、いや、もういいってば。あたしもちょっと言いすぎたかも、だし」
 
              項垂れて、本気モードで謝るもんだから言葉の文、ついあたしも頭下げちゃったじ
 
              ゃない!ホントはそんなこと思ってないから!
 
              「早希は悪くないよ。全部僕1人の責任だ」
 
              いつもの如く、揚げ足をとられちゃたまらないと、慌てて訂正しようとしたのに近
 
              衛氏にその気は無かったようだ。
 
              それは、嬉しいけど悲しい出来事。彼が非を認めると言うことは、現状を守るため
 
              嘘をついている可能性を除けば、浮気を告白したことになる。
 
              やっぱり、そうなのかな。心だけでも、真知子さんにあげちゃったことがあるのか
 
              な。
 
              「ねぇ、近衛氏」
 
              賭に出るのはここしかないと、本能的に思った。
 
              「どんな質問にも答えるって、嘘つかないって約束して?」
 
              「…わかった。約束する」
 
              短いやり取りの間、あたしの心臓が2,3回止まったを近衛氏は気づいたかな?
 
              まず彼がうんと答えてくれなければ、負けるゲームだったと。
 
              大きく息を吸って、落ち着いて。
 
              「真知子さんを好き?恋はしてる?」
 
              「していない。好きになれたら、少しは楽だろうと思ったことはあるけれどね」
 
              間髪入れず返った声に、自嘲に歪む唇に心臓が冷える。
 
              「楽って?」
 
              「僕の目に、君しか映らないことが恐かった。どこかでガス抜きしなくちゃ、2人
 
               で共倒れすんじゃないかと」
 
              「それで、真知子さんを好きなりたかった?」
 
              「少し、違う。捕らわれすぎた心に完璧な彼女なら入る隙があるのか、見たかった」
 
              「隙…」
 
              「キレイで優しくて、夫の理不尽にも健気に耐えられる女性。男なら理想じゃない
 
               のかな」
 
              そんな理由であたしは泣いたの?たくさん苦しんで、先輩がいなきゃ息をするのさ
 
              え苦しかった、あの時を過ごしたの?
 
              淡々と語る近衛氏の眉根が寄せられ、苦しそうに時折頬を引きつらせる、この表情
 
              を見なかったら、あるいはあたしは一生近衛氏を許さなかったんじゃないだろうか。
 
              請われても、縋られても、きっと。
 
              「でも、僕は少しも心が揺れない。長い時間を彼女と過ごしても、君が消えること
 
               がない」
 
              混じり合った視線で、訴えるのは何?
 
              「ずっと早希だけなんだ。僕は早希が好きだ」
 
              初めて、真っ直ぐ気持ちを聞いた。もっと早く、崩壊が始まる前に教えてくれたら。
 
              短く息を飲んで、僅かに躊躇い、
 
              「愛してる…」
 
              近衛氏は、声にする。
 
              欲しかった言葉、遅かった言葉。
 
              一気に世界を歪めていく涙が100%うれし涙なら、あなたに飛び込めたのに、半
 
              分が悲しみで染まってしまったから、あたしは枷を架けるのだ。
 
              「ダメだよ…それだけじゃ信じられない」
 
              頭を振るたび飛び散る雫に、近衛氏は反射的に手を伸ばす。
 
              抱きしめようと、安心を与えようと。
 
              「触らないで」
 
              ビクリと体を跳ね上げて止まる彼に、視線を投げた。
 
              苦痛に満ちた顔が更に歪み、言葉は絞り出されたように掠れている。
 
              「もう、許してはもらえない?」
 
              違う、そうじゃない。あたしの心は、まだあなたを求めてる。だけど…
 
              「あたしが許すまで触らないで、でも傍にいて。ずっとずっと、仕事以外の時間を
 
               全部あたしにちょうだい。空っぽになった胸が満ちるまで、近衛氏が優しくして
 
               もう一度素直に好きだって言えるまで、だだ傍にいて」
 
              抱き合えるほど納得ができていないから、笑い合えるほど傷口は浅くない。
 
              お願い癒えるまで、どうかわがままを聞いて。
 
              「早希が望むままに」
 
              微笑んだ近衛氏は少しだけ嬉しそうで、あたしはだから余計に苦しくて。
 
              触れ合えないのが辛いと思えるほど、近衛氏を近くに感じられる日が来るの、待っ
 
              てる…。
 
 
 
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                  きっとね、許すって単純にはいかないんだよ。       
                  ガンバレ、早希。                          
 
 
 
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