33.
 
              「体は、大丈夫?」
 
              開口一番このセリフは、まずまず合格点だろう。
 
              …なんて、冷静に対処してるフリして心臓バクバク言ってるんだけどね。どう返事
 
              しようか、とか、なんで先輩に怪訝そうな目を向けるんだよ、とか。
 
              「どうして君がここに居るんだ?」
 
              で、近衛氏は自分が気に入らないことを黙ってやり過ごせる御仁じゃないようで、
 
              人が止める時間も与えずに、先輩に失礼を言いやがった。
 
              めちゃ、不機嫌な顔して、睨みつけるオプション付きで。
 
              「近衛氏がいないから、いてくれてるんでしょ」
 
              苦笑して退出しようとした先輩の袖を、飛び起きたあたしが引っ張る。
 
              視線で「2人で話さなきゃだめだ」って伝えてくるからちっさく頷いて、せいぜい
 
              不機嫌な顔して近衛氏を流し見て。
 
              「顔さえ見せないあなたの代わりに傍にいてくれたのは先輩。突然やって来た真知
 
               子さんのダンナさんから身を挺してあたしを庇ってくれたのも先輩。…ねえ、近
 
               衛氏はお礼を言わなきゃいけない立場なのに、なんて態度とるの?」
 
              瞬きするほどの時間だけど、表情が凍ったから多少の罪悪感は持ってると踏んだ。
 
              …いや、冷静に考えるとこの反応はまずいんだけどね。だってほら、罪悪感て悪い
 
              ことした人だけが持つものじゃない。身に覚えがあるんだよ、近衛氏ってば。
 
              「そうだったね、すまなかった。助かったよ」
 
              とっても不本意そうに謝辞を述べるのを受けて、大人な先輩は首を振る。
 
              「偶然居合わせただけだよ」
 
              大人だな、格好いい反応だな。
 
              「それよりこの後、大変な」
 
              くすくす笑いながら退場するんだ…褒めなきゃよかったよ、子供だよ…。
 
              部外者退場で、その過程に虚しさなんか抱いちゃったりするけど、これからが本番
 
              なんだ。
 
              一気に下がった気がする室温は、きっと気のせいじゃない。ちっとも合わない視線
 
              がより一層空気を冷やすし、切っ掛けの一言をどちらが口にするのか、無言で激し
 
              い譲り合いが感じられる。
 
              そんなこともないのかな、あたしの被害妄想なのかな。
 
              「座っても、いい?」
 
              固い声に、独りよがりな想像じゃなかったんだと気づいた。
 
              返事を待って所在なげに立っている近衛氏を見たからわかる。初めて見る、少しバ
 
              ツの悪そうな顔、いつもの強気が消え失せたオーラ。
 
              「…どうぞ」
 
              すぐに視線を逸らしたのは、あたしを憐れむ表情だけは絶対知りたくなかったから
 
              だろう。
 
              どう、言い訳るの?それとも開き直って、全部気のせいだと言い張る気?
 
              間近によく知った気配を感じながら、決心がぐらりと揺れた。
 
              責めずに、何もなかったフリをすれば近衛氏はあたしを見捨てないだろうか?黙っ
 
              て何事もなかったとやり過ごせば、生まれてくる命だけを心に掛けて2人で暮らせ
 
              ば、あるいは…
 
              『ガンバレ』
 
              逃げようとする心を、先輩の笑顔が励まして消える。
 
              だめじゃん、約束したのに。
 
              「…初めは、香水だったんだ」
 
              正面から近衛氏を見る勇気は無いけれど、震える声ですれ違い始めたあの時を思い
 
              出し、問うことはできる。
 
              「ジャケットには残り香がないのに、シャツにだけ甘い香りがした」
 
              「それは…」
 
              「黙って聞いて。まだ、あるんだから」
 
              心が萎えないうちに、全て話してしまいたい。気力があるうちに、早く。
 
              「その後、不安だったから会社まで行ったの。近衛氏の車に綺麗な女の人が乗り込
 
               んでた。近衛氏は彼女の肩を抱いていた。でもまだ、信じてた」
 
              バカみたいに、絶対何もないって。
 
              「タクシーで帰ってきた日、眠れなくて起きてたの。帰ってきたのかなって、窓か
 
               ら外を覗いた。近衛氏、あの女の人と抱き合ってた」
 
              ここで、終わったらよかった。何も確かめず、知りたがらず、バカなあたしのまま
 
              いられたら…。
 
              「隠し事はないか、聞いたら答えてくれなかったよね。いつもなら、無いって言い
 
               切る人が、誤魔化して、そのまま。先週の土曜日は近衛氏の休日出勤を確かめに
 
               会社まで行っちゃった。自分のこと、いやな女だって軽蔑したよ。でも」
 
              ゆっくり頭を巡らせて、じっとこっちを見ていたらしい近衛氏と視線を合わせる。
 
              強く、強く、心の中をぶつけるように。
 
              「こんな女にしたのは、あなただ。真っ直ぐ人を信じられない、疑り深い女」
 
              前触れもなく、頬に涙が伝う。
 
              熱くて冷たくて、想いを吐き出す涙が伝う。
 
              「早希、全部誤解だから」
 
              伸びてきた近衛氏の手を反射的に払って、その乾いた音に心臓が軋みをあげた。
 
              「触らないで。あたしを納得させられるまで、絶対に」
 
              あの人に触れた指で、あの人を抱いたその手で、触らないで。
 
              「…頼むから、落ち着いて。あまり怒ると子供に悪い」
 
              一瞬覗いた面倒そうな表情が、あたしの神経をどこか切ってしまった。
 
              伝わらない、近衛氏にまだ、伝わっていない。
 
              「バカにするのはいい加減にして。話す気がないならいい。今すぐここを出て、真
 
               知子さんのところに行けばいい」
 
              自分の声の冷淡さに驚いたのは、頭の片隅に残っていたかつての自分だ。
 
              見知らぬあたしに近衛氏が表情を変えて対応を変えたのに、もう遅いと心を閉ざし
 
              ていく今の自分が信じられない。
 
              カレヲ ウシナイタクナカッタノデハ ナイノ?
 
              「彼女は、ご主人にずっと暴力を受けていた。早希も会ったあの男だ。日に日に増
 
               えていくアザを化粧で上手く誤魔化してはいたが、さすがに足の怪我は誤魔化し
 
               ようがなかった」
 
              嘘を言っている顔ではなかったから、無言で次の言葉を待つ。
 
              「お茶を運んできてふらついた体を支えた時、ワイシャツに香りが移ったんだろう。
 
               あの時ジャケットは着ていなかったから。翌日、病院まで彼女を車で送ろうと外
 
               に出たのを早希が見かけた。抱き合っていたのは、同乗したタクシーから降りる
 
               僕に彼女が帰りたくないと、恐いと縋ってきたんだ」
 
              全てのつじつまが合い、謎は謎ではなくなる。
 
              けれど、感情はどうなんだろう。この話しには必要な情報が足りていない。
 
              「早希に聞いて答えなかったのは、彼女のプライベートだからだ。君があの時見聞
 
               きした事についてはっきり疑問を述べれば、僕は答えたよ」
 
              「…それは、嘘だね」
 
              認めるのは気が重かったけれど、揺れた近衛氏の瞳が答えをくれたんだ。
 
              あたしごときに心中を悟らせる人じゃないのに、何故そこまで狼狽えるの?
 
              「嘘は言っていない」
 
              固い声に肩を竦めて、苦笑する。
 
              「そう?まぁ、水掛け論だもんね。近衛氏がそう言うなら、それでいいよ」
 
              「…信じてないのか?」
 
              「かもね。それより、続きは?休日出勤と偽っていった先はどこ?」
 
              これ以上険悪になりようもない空気ってのを、彼との間で体感したのは初めてだ。
 
              近衛氏は明らかに不快な表情であたしを見ているし、あたしは彼が零すいくつかの
 
              隠された真実に硬化していく。
 
              「…彼女のアパートを探しに行っていた。ご主人に見つからないよう、早朝から」
 
              「ずっと出社が早くて、帰りが遅かったのは?」
 
              「どうして知ってるの?母屋で寝ていたのに…まさかずっと監視していたのか?」
 
              同じようなことを先輩に言われたなぁ。あの時は少しも腹が立たなかった。先輩の
 
              表情は明らかに心配していたし、近衛氏のように怒りを露わにあたしに疑いをかけ
 
              た訳じゃないから。
 
              「妊娠するとね、眠れなくなる人もいるんだって。逆に眠くてしょうがないって人
 
               もいるし、吐きっぱなしって人もいる。本当はもっと早くに体調変化に気づくは
 
               ずなのに、何してたんだって聞かれたよ」
 
              近衛氏が言葉を飲む様は、滅多に見られるものじゃないからホントなら小躍りして
 
              喜んじゃうくらい会心の勝利よね。
 
              空虚な胸しか残らない。やりこめたって、ちっとも嬉しくない。
 
              「先週はね、もう近衛氏の行動が恐くて確かめられなかった。早朝のエンジン音や、
 
               深夜ジャリを踏む音を聞くのがいやでいやで、いっそ睡眠薬でも貰いに行こうか
 
               と思ったくらい」
 
              「…わるかった、ひどいこと言って」
 
              謝るのは、近衛氏にとって口惜しくて辛いんだろうとわかるから、今日は限界だと
 
              感じた。
 
              これ以上話しても、傷つけ合うだけだ。
 
              「明日…明日また話そう。なんか、疲れた…」
 
              「だけど、少しも解決はしてないじゃないか」
 
              食い下がられても、あたしだってこれ以上無理なのだ。
 
              理解してもらえないと悔しさを滲ませる近衛氏に、笑う。今できる精一杯の明るさ
 
              で、笑う。
 
              「少し、冷静になろうよ。一晩近衛氏のくれた真実を噛みしめてみる。近衛氏もイ
 
               ヤだろうけど、ちょっとだけあたしの立場で考えてみて」
 
              ね、と首を傾げてみせると僅かの逡巡を置いてため息と共に是が吐き出される。
 
              「あなたにとっての浮気って、どこで線を引くのか。あたしと近衛氏が言い争うの
 
               は、きっとそこがネックになってるから」
 
              重くなった目蓋を閉じて、お仕着せの寝間着の袖で涙を拭った。
 
 
 
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                  まだあるんだよ。早希の疑いの理由(笑)。        
                  もう一個行かないと、出てこないなぁ…。               
 
 
 
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