32.
 
              白い無機質な天井を見つめて、涙がこぼれた。
 
              お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、それに先輩に付き添われて運び込まれた病院の処置
 
              は的確で、小さな命はまだ消えていない。
 
              なのに、なんで素直に喜べないんだろう。
 
              確かに子供を産むには早すぎる年だけど、経済的にも社会的にも何ら困ることのな
 
              い立場でしょ?どうして胸が苦しいの。
 
              『近衛氏を引き留めるかっこうの材料じゃない』
 
              不気味に囁くあたしがいる。
 
              『子供を利用したって、一度違う人に向いた気持ちが、戻ることはないんだよ』
 
              悲観に暮れる声がする。
 
              最悪のタイミングだね。これでまた素直になれない理由ができた。
 
              知らせを受けた近衛氏が現れた時、喜びに輝く顔をしていても裏をさぐりたくなる
 
              んだ。
 
              ホントは面倒なことになったと思ってるくせに。もしかしたら、子供だけが欲しい
 
              の?
 
              せめて負い目のない状態で会いたかった。妻子に責任を持たなくちゃいけないと、
 
              近衛氏が考えたりしないフェアな状況で、大事な話はしたかった。
 
              「どうして泣くんだ…?」
 
              物思いに沈むあまり先輩がドアを開けたことも、ベッドサイドに座ってることもあ
 
              たしは知らず、指が目尻を撫でる感触にゆっくり頭を巡らせる。
 
              少し苦しそうにあたしを覗き込む頬に、刻まれた数本の切り傷。
 
              「ごめんね、怪我させちゃった」
 
              こびりついた血を拭おうと腕を伸ばして、繋がれた管に眉をひそめた。
 
              なんの薬だか知らないけど、これがあたしの中に赤ちゃんをつなぎ止めてるんだ。
 
              …引き抜けば…切れる…?
 
              「頼むから、物騒なこと考えるのなしな?」
 
              無意識に点滴の針を摘んだ指を、先輩はため息混じりの苦笑と共にそっと制す。
 
              そのまま潜めた声で、あたしの思い描く計画を見事に打破していくんだ。むかつく
 
              ことに、実に効果的に。
 
              「病院から逃げようとかすんなよ?どっちみち祖母ちゃんが連絡してるからあいつ
 
               に詳細は知れてるし、金持ってないんだから行ける場所もたかが知れてる。子供
 
               でダンナを縛るのは卑怯だとか考えるのもやめろ。傍にいるもいないも決めるの
 
               は本人で、その子にはなんの罪もない。点滴外したくらいで死ぬようなことはな
 
               いと思うけど、もし万が一があった場合、一番後悔するのはお前だぞ」
 
              と、こんな具合でとつとつと丸め込んじゃう。口先三寸は近衛氏と一緒、とても弁
 
              舌が立つ人なんだと言うことを失念してた。
 
              思わず涙も引っ込んじゃうくらい、真剣な視線付きだから効果は絶大で。
 
              「…わかった。ってか、止めてくれてありがとう。ちょっとおかしくなってた」
 
              いつも触れ合ってる毒舌で正気に返ったのか、とにもかくにもやばい方向に思考が
 
              引っ張られてたのは事実。おちゃらけた先輩の真摯な瞳を見るまで自分が人殺し
 
              になる寸前だったと思い至りもしなかった。
 
              なんと申しますか、死神が脳細胞を乗っ取ったみたいな感じで、ひょっとしたらあ
 
              の男の毒気に当てられたままだったり、てな気もしなくないバッドトリップ。
 
              「よく考えればさ、子供がいようといまいと近衛氏を殴らなきゃいけないし、言い
 
               訳如何によっちゃ離婚届はあたしから突きつけて然るべきなんだよね」
 
              悪いのはあっちなのに、被害者のあたしが自分の子供まで手に掛けることはない。
 
              鼻息荒く握り拳を突き上げると、先輩が肩の力を抜いてフワリと笑って見せた。
 
              えっと、見とれちゃうくらいキレイで、どことなく甘い笑顔なんだこれが。
 
              「それでこそ早希ちゃんだよな〜。ホッとしたよ。ここんとこお前暗くってさ、最
 
               大の持ち味で長所の『無謀な勇気』が失われてたじゃん?心配してたのよ〜」
 
              「…『無謀な勇気』って少しも褒めてないぞ」
 
              怒ってるんだけど、内心は赤面しちゃってるのだ。見慣れてるはずの顔に、なんで
 
              だか心臓が暴走してるのだ。
 
              怒りで、カモフラージュ?
 
              受けた先輩はこっちの心情なんか察しちゃくれない。より一層輝きを増した微笑み
 
              で、わしゃわしゃあたしの髪をかき回して、
 
              「早希ちゃんに限っては褒め言葉だよ。絶対勝てるはずない相手でも、猪突猛進、
 
               砕けたらアロンアルファで張り付けろが格好いいんだよ。ま、今回は安心して当
 
               たれ。飛び散ろうが、踏みつぶされようが俺が責任もって引き受けてやるからさ」
 
              …これ、殺し文句だと思うんですよ。ぴかって先輩が光ってるんです。
 
              必殺『これで堕ちない女はいないだろ』光線の直撃を受けて、心拍数マックス、毛
 
              細血管までも全開。先生、頭から湯気が出そうです…。
 
              だから、殊更陽気に赤い顔なんか見るんじゃない状態で強気に言ってみる。
 
              「もれなくこの子もついてくるけど、いいの?母親はいるけど子供はいらないとか
 
               言う男に用はないよ」
 
              ふん、さすがに他の男、よりにもよって近衛氏の子供じゃいるまい。
 
              返事もできないだろうと踏んだのにね。
 
              「おう、この子込みでいいぞ。生まれる瞬間立ち会って、育て上げたら、俺が親だ
 
               ろ」
 
              事も無げに宣言しちゃうさ。胸張って自信満々で、口惜しいがときめいてしまった。
 
              ポンポンとお腹を叩く手も、好感度たかし。
 
              「つーわけで後顧の憂いはとってやったんだからさ、大丈夫だろ?」
 
              口調とは裏腹に瞳が陰ったことで、先輩の言わんとしていることがわかる。
 
              そう言えば、お祖母ちゃんが電話したって言ってたなぁ。そろそろかぁ。
 
              「…来てるの?」
 
              誰が、なんて無粋な質問はいらない。短く一言、確認するだけで事足りる、今一番
 
              ここにいなくてはいけない人。
 
              「5分でつく、つってたからな、来たろ」
 
              随分お早いおつきで…はすんでの所で飲み込んだセリフだ。
 
              会いたくないみたいじゃない。イヤミっぽく聞こえなくもないし。実際8割方そう
 
              なんだけど、まずいだろ。口に出したらいけないでしょ。
 
              でも、自分で自分を説得するにも限界があって、基本姿勢として1対1は想定外。
 
              なるべく大人数で話したいな、味方が多い方がやりやすいし…。
 
              「一緒にいて?」
 
              「だめ」
 
              可愛らしくお願いしてみたんだが、にべもなく断られた。
 
              「さっきの勢いはどうしたよ。殴るんだろ、悪魔を」
 
              痛い突っ込みつきで。
 
              言ったけどさぁ、言いましたけどねぇ、相手は魔王様だよ。言いくるめられるかな?
 
              それも本望なんだけど、この前みたいに上手くはぐらかされるのは、困る…。
 
              「怯むなって。聞きたいことは全部聞け。本人の口から出るのが一番の真実で、そ
 
               れを自分の耳で聞くのが一番の判断だ」
 
              急に弱腰になったあたしに活を入れて、諭す先輩はお寺のお坊様ののようだ。
 
              御説法痛み入りますって言いたくなるじょぉ〜。
 
              「ガンバレ」
 
              真面目に応援してくれるから『無謀な勇気』とやらを奮い立たせて、気合いを入れ
 
              る。
 
              ワイシャツに香水が付くわけを聞こう。
 
              肩を抱いて車に乗るほど親しい女性について聞こう。
 
              休日に嘘をついて出かけた先を聞こう。
 
              秘書さんのダンナさんが怒鳴り込んでくる理由を聞こう。
 
              あたしを騙した理由を聞こう。
 
              頭の整理はついた。見守りモードに入った先輩の優しい微笑みも後押ししてくれる。
 
              後は真実を知ることを恐れなければ大丈夫。
 
              「早希?!」
 
              「ほら、来たぞ」
 
              乱暴に開いたドアに、先輩経由で視線を送った。
 
              1週間ぶりに見る近衛氏は、相変わらずため息を誘うほど格好良いいけど、乱れた
 
              髪と荒い呼吸が彼の動揺を教えてくれる。
 
              果たして、あたしを心配してのことか、ダンナさんに怒鳴り込まれてのことか、気
 
              になるわよね。
 
 
 
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                  気になったまま、待て次号(笑)。            
                  なんだよなぁ、長いな前振り〜。                   
 
 
 
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