31.
 
              「あんた、誰だよ」
 
              先輩の低い声に、対峙した男は怯むことなく一歩を踏み出す。
 
              年は平沢さんと同じくらいだろうか。30半ばくらいじゃないかと思うけど、よれ
 
              たポロシャツとくたびれたジーンズのせいで、みすぼらしく見える。少し長めの髪
 
              はブラシも入れてないボサボサ状態で、あご周りの無精ヒゲといっちゃった感のあ
 
              る目つきが合体してるからアル中もしくはジャンキーかと疑いたくなる様子。
 
              なんか、恐いんだよこの人。あの台詞から察するに、近衛氏に、きっとあたしにも
 
              いい感情は抱いていないんだろうと思うけど、怒りの波動が空気を振るわせて痛い
 
              ほど伝わってくる。
 
              睨み合ったまま徐々に距離を縮め、口からは呪詛のような呟きだけ吐き出すから、
 
              なお一層恐怖は煽られた。
 
              「若い女だけじゃ足りなかったのか。お偉い社長様は秘書にまで手をつけて、それ
 
               が人の女房でもお構いなしだ。なぁ、こんなこと許されるのか?!」
 
              息を飲んだのは2人同時で、庇う背が一瞬にして緊張を強めたことにあたしの心臓
 
              も凍り付く。
 
              近衛氏の相手は秘書で、結婚してて…見たこと聞いたことだけじゃなく、第三者に
 
              まで浮気を肯定されるなんて…。
 
              怯んだ様子を好機と見たのか、男は一歩で手が届く場所で動きを止めると狂気にも
 
              似た叫びを上げた。
 
              「しかもお前達は家ぐるみで真知子を隠す。返せよ、あいつを出せ!!」
 
              声に身を竦ませたのは初めての経験で、情けなくも無責任にあたしは先輩の陰に隠
 
              れる事しかできない。
 
              この人の望みを聞くのも、知ってる限りの事情を説明するのも、自分の仕事なのに
 
              怯えて無関係の人を矢面に立たせるなんてサイテーだ。
 
              でも、近衛氏のやったことを聞かされて再起不能に陥ってる時に、彼の弁護なんて
 
              できない。する気にもなれない。
 
              「早希!」
 
              考えあぐね、いつ飛びかかられてもおかしくない状態で降着していたあたし達の間
 
              に割って入ったのはお祖父ちゃんと平沢さんだった。
 
              口汚く罵りを上げる男を平沢さんが取り押さえる一方、ずっとあたしを庇ってくれ
 
              ていた先輩にお祖父ちゃんが近づいてくる。
 
              「すまなかったな、森山君。とんだことに君を巻き込んでしまった」
 
              「いえ、俺は何もしていませんから」
 
              週末によく現れ、ここ1週間はすっかり風間家の茶飲み友達と化していた先輩は、
 
              気むずかし屋のお祖父ちゃんとすっかり仲良しさんで、交わされる言葉も何となく
 
              柔らかい。
 
              短く状況説明を終え、すっかり現実に立ち戻った2人は未だ先輩の後ろで縮こまる
 
              あたしに微笑をくれた。
 
              「大丈夫だったか?」
 
              訪ねて、お祖父ちゃんが手を伸ばす。節くれ立った、だけどおっきくて温かいそれ
 
              に勇気をもらって、あたしはようやく逃げ隠れをやめた。           
 
              まぁ、よく考えれば結局はなんにもされてないんだし、そりゃ言われたことはショ
 
              ックだったけど、悪いのは全部近衛氏であの男に怒鳴られるべきも近衛氏。
 
              浮気されるわ相手のダンナさんは自宅に押し入ってくるわ、あたしさんざんじゃな
 
              い。なんか、無性に腹立ってきたんですけど。
 
              「あのさ、これはもう…」
 
              近衛氏を問いつめて殴りに行こうよ、と言おうとした唇が凍り付く。
 
              平沢さんに引きずられていた男が振り向いた、その顔を見てしまったから。泣き濡
 
              れた瞳と目が合ってしまったから。
 
              なんて、苦痛に満ちた顔をするんだろう。頼むから、と絞り出す声の切なさは先程
 
              怒鳴り声を上げた人と同じなんだろうか。
 
              「なぁ、教えてくれよ。真知子、返してくれよ」
 
              ズキッ。
 
              「黙りなさい!」
 
              制止する腕をすり抜けて、額を地面にこすりつけんばかりに男が懇願する。
 
              「俺にはあいつだけなんだよ、あいつがいないと生きていけないんだよ」
 
              ズキッズキッ。
 
              「早く連れて行け」
 
              「お願いだよ…」
 
              命じるお祖父ちゃんを止めようと、口より先に体が動いた。
 
              −−−彼の望みは全て、あたしの望み−−−
 
              「早希ちゃん!」
 
              引き留める先輩の腕を振り切って、短い距離を走る。
 
              −−−別れを切り出されるのが恐くて、何も聞けなかった−−−
 
              「いけません、早希さん!」
 
              男を押さえつけながら、平沢さんが鋭い口調で警告を発した。
 
              −−−彼を返してもらえるなら、なんでもするのに−−−
 
              きっと、彼はあたしと同じ行き場のない怒りと想いを抱いている。
 
              大好きな人に裏切られて、捨てられて、悲しんでるのよ、苦しんでるのよ。
 
              聞いてあげなくちゃ、涙ながらの訴えに耳を傾けられるのは、あたしだけなんだか
 
              ら。
 
              「やめて、この人は…」
 
              「返せよ!!!」
 
              瞬間、自分の身に何が起こったのか、全く理解できずにいた。
 
              突き飛ばされ、視界は反転し、背中に鈍い衝撃が走る。次いで頬にジャリが食い込
 
              み、何故だかお腹がジクリと痛んだ。
 
              「返せぇ!!!」
 
              「…っ!」
 
              「やめろっ!!」
 
              髪を掴んで顔をさらされて、初めて男が馬乗りになっているんだと知って、直後に
 
              痛みと重圧から解放される。
 
              飛びかかって男ごと地面にもつれ込んだ先輩が、窮地を救ってくれたのだ。
 
              土埃を上げ格闘する2人にすぐに平沢さんの援軍が加わって、再び取り押さえられ
 
              た男が吼える。
 
              「真知子をどこに隠した!お前の亭主が連れ出したんだ、知ってるんだろ!!」
 
              駆け寄ってきたお祖父ちゃんに助け起こされながら、あたしは耳を覆った。
 
              同じだったはずなのに、辛くて仕方ないあなたを守ろうとしたのに、違う場所にい
 
              る。そこには狂った風が吹いている。
 
              「知らない…知らない…知らない…」
 
              だからうわごとのように繰り返し、激しく首を振ると男の全てから逃げようと視界
 
              も閉ざす。
 
              他人を傷つけてでも取り戻したい感情を、あたしも持っている。踏み出す道を誤れ
 
              ば、落ちていく深い闇を身の内に飼っている。
 
              「嘘をつくなっ!!!」
 
              「黙れ!!」
 
              遠く霞んでいく叫びに、去った狂気に安堵した。
 
              好きになれば、なりすぎれば堕ちるのが必然で、際どいバランスで人は独占欲と闘
 
              っている。
 
              近衛氏が好き。誰にも渡したくない。奪われたらあたしもあの男のように、おかし
 
              くなって相手を追いつめるのかもしれない。
 
              カレヲシバッテ、ジユウヲウバウ。
 
              間違いだ。離れた心は取り戻せない。いらないと言われたら、諦めなくちゃいけな
 
              い。
 
              「森山君、早希を頼む。車を回してくるから」
 
              緊迫したお祖父ちゃんの声に、少しだけ意識が外を向く。
 
              「せん、ぱい…?」
 
              いつの間にか抱き上げられたあたしは、先輩に運ばれて縁側におろされていた。
 
              冷たい板の間に体を伸ばすと、世界がクルクル回転をして、お腹が焼けるように痛
 
              い。
 
              「どこか痛いんか?ハラ?」
 
              覗き込んでいた瞳が曇って、エビのように丸まる背中を温かな手が上下した。
 
              ああ、また先輩に迷惑かけてる。最近甘えっぱなしだなぁ、いい加減独り立ちしな
 
              きゃいけないのに、ドロドロ真っ黒に濁った心でいい人の傍にいるなんて、ずーず
 
              ーしいよね。
 
              でも、まだ離れることができないから。
 
              「助け、て…」
 
              きつく目を閉じ唇を噛んで、命綱のように先輩のシャツを握りしめた。
 
 
 
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                  あのですね、ちっとも進んでません(笑)。        
                  予定では近衛がでるはずだったのに、罵倒しようと思ったのに(泣)。 
 
 
 
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