10.
 
              「さて、帰ろうか」
 
              下火になった笑いの合間、あたしの腕を取った近衛氏がさりげに言う。
 
              「冗談やめろよ、風間はまだ仕事が残ってんだよ」
 
              めげじと逆の腕を取って、先輩も応戦。
 
              大岡裁きって知ってる?継母と実母が子供を取り合うってやつ、この状態がそれね。
 
              でもって、なぞらえるならこの場合、
 
              「痛いっ!」
 
              と叫べば、ホントにあたしを思ってる方は思わず手を離しちゃうって寸法なんだけ
 
              ど。
 
              「どっちと行くか、決めればいいんだよ」
 
              「意思表示すんならここだろ」
 
              こいつらは…。
 
              「ええい、放せっ!」
 
              強引に引っこ抜いた腕をさすりながら、男2人を見上げてみる。
 
              「早希はばかじゃないよね?」
 
              そんな脅迫バリバリの視線で問いかけられて、あたしにノーが言えると…。
 
              「今どのくらい忙しいか、わかってるよな?」
 
              えーもー、委員長がさぼり魔なもんで、その他大勢が苦労すんのよ。1人で放りだ
 
              したら、ペンキ買って帰るかも怪しいし…。
 
              「早く決めて」
 
              「早く決めろ」
 
              仲良くハモんなっ!
 
              究極の選択を迫られて、不機嫌な目にさらされて、うんうん唸ってると遠慮がちな
 
              女の人の声がした。
 
              「あの、隆人さん?」
 
              …それは、近衛氏のことで?
 
              振り返った先に、薄紅の着物で佇む人がいる。小柄で、清楚で、お嬢様を絵に描い
 
              たような人。年の頃は20を少し出たくらい?取り立てて美人じゃないけど、華の
 
              ある空気を纏ったかわいらしさがある。
 
              「大変申し上げにくいんですが、時間が…」
 
              申し訳なさそうに言いわけて、チラリとあたしに視線をくれた。
 
              ああ、そうでしたね。あなた、近衛氏の車に乗って談笑してたあの人だ。
 
              …面白くない。どんな関係かは知らないけど、天使の笑顔をもらって、どこぞかに
 
              送って頂けて、名前で呼んじゃうくらいに近衛氏と親しいなんて。
 
              「すみません、コレを拾ったらすぐに行きますので」
 
              指さしたな。この人には謝るのに、あたしはモノ扱いかい。いよいよもって、面白
 
              くないぞ。
 
              不機嫌そのままに、こちらに向いた近衛氏の手をたたき落とすと、あたしはかの人
 
              ににっこり微笑みかけた。
 
              「お待たせしました。こっちは片づいたんで、どうぞ2人で行っちゃって下さい」
 
              白々しく持ち上げた頬がぴくぴく揺れる。
 
              忘れがちだけどね、後悔もバリバリするけどね、あたし近衛氏のこと好きなの。
 
              大抵の女は、自分の思い人が他の人と一緒にいたら怒るんじゃないかな。ましてや
 
              それがダンナだったりした場合、浮気を疑われても仕方ないと思わない?
 
              「早希…?」
 
              降ってきた声は、訝しんでる心中が垣間見えた。
 
              わかんないかな、あんた兄ちゃん達と話してるあたしには不機嫌オーラまき散らす
 
              くせに、人の心は理解できない?
 
              「お時間ないんですって、聞こえなかったの?早く行きなよ。あたしは学校の用が
 
               終わってから帰る」
 
              むかついて嫌みたんまりのセリフを投げると、ニヤニヤ嫌らしい笑いを浮かべた先
 
              輩の向こうずねを蹴り上げた。
 
              もちろん八つ当たりよ。近衛氏にやると仕返しが怖いから、こいつで我慢。
 
              「…お前なぁ」
 
              度重なる暴力にもめげることなく、人の肩を抱こうとするからすり抜けてやる。
 
              「…僕に逆らうの?」
 
              踵を返した背後にかかる低い声には、まだ少し揶揄が絡んでて、それが一層あたし
 
              の頭に血を上らせた。
 
              弾かれたように振り向くと、めいっぱいの怒りを込めた視線で対峙する。
 
              「あんたにプライベートがあるように、あたしもプライベートはあるの。個人の領
 
               域まで踏み込んで命令するのやめて」
 
              普段のあたしなら絶対言わないセリフだよね。現にほんの少し前は、報復を恐れて
 
              先輩に当たってたんだから。
 
              「機嫌が悪いね」
 
              近衛氏から表情が消えたのは、あたしの本気がわかったからなんだろう。突き放し
 
              た声が痛い。
 
              「いつもご機嫌じゃ、からかいがいがないでしょ」
 
              遊ばれてやる余裕はない。言い返すと近衛氏の眉が僅かに上がった。
 
              「今の早希じゃからかう気にもなれない。怒ってる理由は何?」
 
              ため息混じりの声と、付き合いきれないってめんどくさそうな態度。
 
              「わかんなきゃ、いい」
 
              救いようがない。やましいところがないにしろ、思い当たりもしないっていうの。
 
              切り上げようとしたあたしの肩を、思いの外強い力が止めた。
 
              食い込む指にいらだつ近衛氏を感じて、頭の隅がキンと冷える。
 
              怒らせた?でも、こっちだって怒ってる。
 
              「よくないだろ。時間がないんだ、早く言って」
 
              「全部そっちの都合じゃない。急いでるなら、あたしの話なんて後でもいいでしょ」
 
              ああもう、くだらないっ!どうして近衛氏の車に女の人が乗ってたくらいで、怒ら
 
              なきゃならないのよ。
 
              ましてや、相手が気にも留めてないんじゃ、1人で怒ってる分バカみたい。
 
              「…あの、隆人さん?」
 
              尖った空気に、不釣り合いな穏やかさで元凶が割り込んだ。
 
              一斉に注目を浴びて、少し怯んだみたいだけどめげることなく彼女は続ける。
 
              「本当に時間が…」
 
              バスでもタクシーでも拾やいいでしょ?交通機関が近衛氏の車しかないってならと
 
              もかく、いくらでも手はあるじゃない。一体どこのお嬢様よっ!
 
              イライラと今にもわめき散らしそうなあたしと、控えめに、だけど自己主張をする
 
              お嬢様、見比べてから一瞬逡巡した近衛氏は肩を掴んだ手を離した。
 
              「彼女を送らなきゃいけないから、続きは後にしよう。学校まで…そうだな30分
 
               で行ける。帰る用意をして待ってて」
 
              チラリと時計を覗き込んだ近衛氏に、切れる。
 
              ああ、そう、いいんじゃないの。怒りマックスの奥さんより、他の女の人が大事な
 
              ら好きにすればいい。
 
              「自分で帰れるから、迎えはいらない」
 
              今度こそ、引き留めるものは何もなかった。
 
              2人がいるのとは真反対に歩き出したあたしは、口惜しさに唇をかみしめて薄闇の
 
              街を歩く。
 
              「そっちにペンキ売ってる店はねえぞ」
 
              追いついた先輩のセリフに、火の出るような視線を返すと無言で足を動かした。
 
              「…ちょっとは信用してやれよ。あいつら俺の見た限り、怪しいところはなかった
 
               ぞ」
 
              気遣わしげに弁護するのはどうして?揉めだしたら、楽しげに眺めてたじゃない。
 
              それに言われなくてもわかってるわよ、だから近衛氏はあたしの怒りに気づかなか
 
              ったんだから。
 
              「ヤキモチも多少なら可愛いけど、行き過ぎると収集つかなくなんだろ?大丈夫だ
 
               よ、あの男が好きなのはお前で、彼女じゃないんだから」
 
              「…もん」
 
              言い募るから、思わず呟いてしまった。
 
              「あ?」
 
              「好きって言われたことないもん、あたしだけが好きなんだもん!」
 
              普通の恋人同士なら取るに足らないことでも、過剰に反応しちゃうのは関係が不安
 
              定だから。結婚したって恋愛中なのよ、いろいろすっ飛ばしてここにいるんだもん。
 
              あたしの恋は、こんなにも曖昧なモノの上に成り立ってたんだ。
 
              ぐらぐら揺れる足場に耐えきれず、心配してくれた先輩に怒鳴り返しちゃって、子
 
              供みたいな癇癪に頬が熱を持つ。
 
              「…カレシじゃないのか?」
 
              驚いて覗き込んできたのに、詰まった。
 
              なんて答えりゃいいの?結婚してるのに、告白されたこともないって?
 
              「お前が付きまとってるんじゃ、ないよな」
 
              「そんなことしない!」
 
              恐ろしいこと言わないでよ。そんな真似したら二度と立ち直れないほど罵倒されん
 
              に決まってるんだから。
 
              想像だけで、震えが走ったわ。
 
              「そいじゃあれか、嫌がるあいつを金で買ってみたとか」
 
              「あたしの人生、めちゃめちゃになるでしょ!」
 
              自ら罠に落ちるほど、バカに見えるの?…実際嵌められたんだけどさ。
 
              「…戻ってきたな、百面相」
 
              諸々思い出して、ぞっとするやら情けないやら、忙しく表情を変えてたあたしは、
 
              からかう調子の声に思わず顔を上げる。
 
              「落ち込んでても、いいことねえよ。怒ってるより笑ってろ」
 
              …わかりにくいけど、励まされた?
 
              ニカッと笑った先輩が、いい人に見えてどうにも困る。
 
              「俺からお前を引き離そうとしてたくらいだからな、充分好かれてる。自信もて」
 
              のし掛かられて怒ってみせるけど、今までみたいにイヤじゃない。
 
              たらしだけど、近衛氏より人間はできてるわ。うん、もてるのわかるぞ。
 
              「…わかった、頑張ってケンカする」
 
              ファイトが湧いたね、正面切って立ち向かって、近衛氏に好きだと言わせて見せよ
 
              うじゃない。
 
              「おう、ほどほどにな。振られたら俺が拾ってやるよ」
 
              「そんときゃ頼むわ」
 
              てっきり怒鳴り返されるつもりでいた先輩の、びっくり顔がおかしかった。
 
 
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                  こうではなかった…気が。    
                  どうにも気に入らないなぁ…。            
 
 
 
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