3.
 
              意識のとんだ香奈をアパートに捨てる重労働を終えた私は、発進した車が行き先も聞
 
              かず走っていることに今頃気づいた。
 
              訝しげに巡らせた視線はきちんとマンションに向かっている標識を何枚か見かけるから、
 
              あら不思議。
 
              「私の家、教えましたっけ?」
 
              飲んじゃいないけど、体調不良で朦朧としてたし、この男はやたら聞き上手で質問して
 
              るのにいつの間にかこっちが答えてたりなんて事が何度か思い出されて運転席に問い
 
              かけてみた。
 
              「いいえ?でも知ってますから」
 
              邪気の無い笑顔で平然と返されて、納得しそうになったけど、待って。
 
              「どうして?」
 
              おかしいじゃない、初対面の人間の住処を知ってるなんて。
 
              最近じゃストーカーなんて輩が家どころか個人情報まで易々と入手できる時代ですから
 
              ね、あなたがそのたぐいの人種なら説明もつくでしょうよ。
 
              でも、聞いたこと無いでしょ?見目麗しいストーカーなんて、ましてや微笑み一つで何
 
              万も貢がせる連中が、しがない編集で預金も容姿も人並みの女をつけ回す必然性が見
 
              つからない。
 
              「……まだ、思い出しませんか?」
 
              喉の奥でくつくつと笑いながら探るようにこちらに視線を寄越したライは、楽しいイタ
 
              ズラを仕掛けた子供の様に顔を輝かせていた。
 
              思い出すと言うことは、どこかで会ってるってコトよね?
 
              初対面で感じたどこかで見た気が…は気のせいじゃ無かったわけだ。
 
              うーん、あの時より更に脳細胞が死滅してるからなぁ、思い出せないなぁ。
 
              霞がかかるというよりは、闇に飲み込まれつつある思考回路ではライの姿を探索する
 
              どころかショートさせた方がよほど早くて、私は両手を上げるとギブアップを宣言した。
 
              「覚えがあるような気はするんだけど、あなたの正体はわからない。もしかして近所に
 
               住んでるの?」
 
              マンション近郊は住宅街だもの、派手なお兄ちゃんの一人や二人いてもおかしくないわ。
 
              ところが彼は私の反応に呆れたように首を振ると、これ見よがしのため息までついて
 
              みせ、疲れた神経を刺激する。
 
              「なによ、それ」
 
              むっとして声が尖ったのに、ライは冷たい視線を送って寄越した。
 
              「梨々子さん、危機管理能力不足してますよ。いくら都会が他人干渉しない街でも、隣
 
               人の顔くらい覚えておかないと」
 
              ……隣人……誰だったかしら?
 
              「右隣は同じくらいの年の女の人…あれ?おばさんだっけ?いや、お嬢さん?左隣は…
 
               空き部屋…かな?」
 
              しどろもどろで曖昧なコトをあげつらうんだけど、実際は全く記憶にないのよね。
 
              家を出る時はページ割りだの企画だの、スケジュールチェックしてて周囲は見てない、
 
              帰宅時は疲れ切ってて朦朧。
 
              休みは睡眠と掃除洗濯で部屋に籠もりがちだし、買い物に外出したってラフな格好です
 
              っぴんメガネなもんだから恥ずかしくて下向きっぱ。
 
              我ながらダメ人間の見本じゃない。
 
              「501の住人は僕です」
 
              私の答えに期待しても無駄なことを悟ったのか、あっさりライが種明かしをした。
 
              501は無人だと言った左隣。
 
              「朝、何度か会って挨拶も交わしてますよ。本当に覚えてないの?」
 
              「ああ…珍しくおはようと声かけられたコトがあった…」
 
              それは記憶にあるわよ。廊下で会おうが、エレベーターで会おうが、独身者の多いマン
 
              ションでは無反応が常なのに、控えめながらおはようと言われて慌てて返した覚えが。
 
              「ライ、だったの。どおりで見覚えあるはずだわ」
 
              「本当に覚えてなかったんだ」
 
              呟かれた声が寂しそうで、見やった先の顔も捨てられた子犬を彷彿とさせる憐れさ。
 
              この程度のコトでそんなにへこまなくてもいいじゃないのよねぇ?
 
              なんて、自己弁護してみても何故だか消えない罪悪感。
 
              「ごめんね?私あまり周りを見ないで生きてるから。あなたくらい目立つ人記憶してな
 
               いなんて、だめね」
 
              誤魔化し笑い貼り付けながら言ってみるけど、道路に据えられたライの目から陰りが消
 
              えることはない。
 
              ホストなんて注目されてなんぼの商売してる人間に、忘れちゃったーってプライド傷つ
 
              けたのよ、これはまずい。
 
              「今度は忘れない。約束するから」
 
              「仕事がらみなら忘れませんよね」
 
              い、痛いとこつくじゃない。さくっと残酷だわ、この子。
 
              「あなたはいつ会っても仕事のコトしか考えてませんて顔に書いてあった。用のない隣
 
               人のことなんてどうでもいいんだ」
 
              「違います。忙しくてそんな風になっちゃってるけど、決して隣人に興味が無いわけでは…」
 
              「無いでしょ」
 
              「ちょっとはある」
 
              「無いでしょ?」
 
              直線道路なのをいいことに、こちらを向いた天使の笑顔で言い切られて、あなた誤魔
 
              化せる?誤魔化せないでしょ?
 
              邪気がないのよ、無邪気に言い切っちゃうの。その純粋さ、アカにまみれて汚れきった
 
              私には眩しい!
 
              「欠片もございません。ごめんなさい」
 
              素直に謝ってしまいました。
 
              話の内容からは謝罪の必然性を全く感じなかったのに、何故か平伏、全面降伏。
 
              なにゆえ私は疲れ切った体で、鈍い頭痛に苛まれながらほぼ初対面の相手に謝罪して
 
              るんでしょうか?
 
              しかし、この理不尽な状態の何がお気に召したのか、ライは満面の笑顔でそれはそれは
 
              嬉しそうにこっちを見るの。
 
              「素直な梨々子さんは可愛いから許してあげます。もう僕のコト忘れちゃダメですよ?」
 
              「はい…」
 
              今、歯が浮くようなセリフを言われた気がするけど、忘れるの。それこそ記憶に残しちゃ
 
              ダメ。
 
              ついでに子供みたいにバカな返事を返した自分も消してしまいなさい!
 
              家路を辿る車の中で、恐ろしいほど疲れ切った私は、これ以上ライと無駄話はするまい
 
              と心に決めたのだった。
 
              いつになったらゆっくり眠れるのかしらね、ふふふ。
 
 
 
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             梨々子、壊れる(笑)。
 
 
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