4.
 
              どうしてかしら?何とも違和感を感じるのよね。
 
              ふかふかのお布団も、手足を伸ばせる開放感もやっと手に入れた安眠だって言うのに、
 
              まどろみの中、気づいてしまったら深い眠りに戻ることができない。
 
              ゆるゆると覚醒する意識に苛立ちを覚えながら、重い目蓋を開くことなく探索の手を
 
              伸ばした私は、何もかもが違うことに指先を硬直させた。
 
              コットンをこよなく愛する人間は、シーツにシルクなんか選ばない。頬に当たる枕カバー
 
              さえさらりと肌を撫でるのは高級素材が寝具全てを覆っている証拠。
 
              スプリングの効いたマットレスも私は嫌い。沈み込む体の重さに絶えられず腰痛の元に
 
              なるんだもの。
 
              そして、極めつけが染みついたパフュームの気持ち悪さ。甘ったるい香りの陰に男性も
 
              ののシトラスが混じり合って、耐えられないハーモニーを醸している。
 
              人工的な香りを好まない私がそんなものを安息の場に持ち込むはずがない。ましてや
 
              男性の香りなんて今の現状じゃ残ること自体おかしいのよ。
 
              「どこ?!」
 
              飛び起きた途端に襲いかかる激しい頭痛に、空っぽの胃袋が悲鳴を上げた。
 
              寝不足で起きた偏頭痛は短時間の睡眠で回復するどころか悪化してる。ついでに起き
 
              抜けに意識した香水に胸のむかつきがプラスされ、今すぐトイレに駆け込まなきゃここ
 
              で吐くこと請け合いよ。
 
              「………?」
 
              近くで問いかける声を聞いたけど返事をする余裕はなく、這い出したベッドから見慣れ
 
              ぬ部屋を彷徨ってバスルームのドアをくぐった時は限界が間近だった。
 
              冷たい洗面台に張り付いて、ほとんど胃液だけの内容物を涙ながらにぶちまけた私は、
 
              顔を上げて鏡越しに見つけた顔で己の居場所を悟る。
 
              ホストのライは、隣の住人。彼の車から降りた記憶は−−ない。
 
              「梨々子さん、平気?」
 
              隣にかがみ込んで、上下する背をさする優しい腕をはねのけたのは、条件反射。
 
              「ちか、づかないで…!コロンが、気持ち悪…」
 
              仄かに香るシトラスに、再び刺激された胃を押さえながら再びおう吐した。
 
              悪いと、頭の隅では思うのに生理反応は収まらず、よじれる痛みに耐えながら押さえら
 
              れない吐き気と戦う。
 
              「ごめん…」
 
              短い謝罪にこちらこそと言いたいけど、無理ね。
 
              薄れゆく芳香に落ち着きを取り戻した体は脱力し、ずきずき痛むこめかみに負けて冷た
 
              い床にへたり込んだ私は、壁に背を預けて浅い呼吸を繰り返した。
 
              お布団にくるまりたい…。
 
              痺れて冷たくなった指先を引き寄せながら思うけど、歩くだけの力は残っていなくて、
 
              せめてもと重い目蓋を閉じる。
 
              ここは、ライの部屋なのよね。ちょっと歩けば自分の部屋に戻れる距離。
 
              でも自力じゃ無理、は極端に鈍くなった頭でもわかる。お願いできれば彼に送って欲し
 
              いけど、あの匂いは我慢できないなぁ…って、肝心のライはどこ行っちゃったの?
 
              そこで初めて、水音に気づいた。
 
              水道水を流すものではない、シャワーの激しいリズムはすぐ隣から発せられていて、鼓
 
              膜を震わせる。
 
              そっと目を開ければ床に散乱する衣類と、シャワーカーテンの引かれたバスタブにうっ
 
              すらと人影が見えた。
 
              ……ライが入ってると考えるのが妥当、よね…?
 
              この時間、見覚えのある服を脱ぎ散らして風呂場にいる男が家主意外なはずはない。
 
              それにしたって、いきなり何?
 
              「梨々子さん、そこにいる?」
 
              途切れた水音に重なるライの声に、慌てて発した返事は自分のものとは思えないほど
 
              掠れていた。
 
              「ああ、ひどいな。喉大丈夫?」
 
              「なんとか…」
 
              「うん、じゃあ目をつぶってて下さい。ここから出るから」
 
              お風呂から出たら裸…男の裸を見るのは痴女…じゃなくて目を閉じなきゃ。
 
              バカな連想を終えて、視界を閉ざすとすぐに蒸気が立ちこめた。
 
              ぬるい霧の中歩み出した足音が真横で止まり、ふわりと動いた風がタオルを操る彼の
 
              体温を伝えてくる。
 
              「吐き気は収まりました?」
 
              言外に多分の心配を込めて聞いてくるライに、安心させようと口元をほころばせた私
 
              はひりつく喉を無視して声を絞り出す。
 
              「さっきはごめんなさい。頭痛がしてたものだから匂いに過剰反応しちゃって」
 
              「僕こそごめんなさい。頭が痛い時って、食べ物の匂いで吐く人もいるの知ってるから。
 
               でも、もう大丈夫でしょ?」
 
              突然、宙に浮いた体は安定を欠いていて、失ったバランスを取り戻そうと伸ばした指先
 
              が、なめらかな肌を虚しく滑っていく。
 
              「な、に」
 
              目蓋を上げれば心地よい熱を放つ体に横抱きにされたことを、理解することができた。
 
              できたけど、この人裸?なにゆえ裸?そりゃあ、お風呂上がりは何も着ていないだろう
 
              けど、着替えるとか考えない?
 
              「クローゼットの服には匂いが移っちゃってるだろうから、このまま運びますね」
 
              こちらの困惑を見透かして回答をくれた彼は、バスルームを後にすると間接照明で彩ら
 
              れたリビングへと進む。
 
              ついでにそこも通り越して寝室へ入ろうとしたライに、私は小さく抗議の声を上げた。
 
              「どうかしました?僕のベッドじゃイヤ?」
 
              どこかしら不満げな響きがあるような気がするけど、それどころじゃないわ。
 
              せっかく落ち着いたのに、あの匂いの中に放り出されたら元の木阿弥じゃない。
 
              「お布団にライのコロンと…女性ものの香水が染みついてるの。吐いたのもアレを思い
 
               っきり吸い込んじゃったからで…その、親切にしてくれるのに申し訳ないんだけど、で
 
               きれば自分の部屋に帰りたい」
 
              長ゼリフはしんどかったけど、これだけは言わないとわかってもらえない。香りを纏って
 
              る人って自分の匂いに麻痺し
 
              ちゃってるから、身の回りの物にそれが染みついてるなんて考えもしないんだもの。
 
              ついでに彼女の好みにまでけちをつけた気がして、腕の中で身を竦ませたのに、彼は少
 
              しの怒りもみせはしなかった。
 
              どころか、手近なソファーに私を降ろすとテーブルのバッグをこちらに引き寄せてくれる。
 
              「鍵を出しておいて下さい。僕が部屋まで抱いていきますから、梨々子さんが扉を開け
 
               てくれないと入れない」
 
              「ご迷惑をお掛けします…」
 
              本来なら意地でも歩いていくって言い張りたいところなんだけど、いかんせん自由の利
 
              かない手足では這っていくの間違いになりかねない。
 
              素直に目的の物を探り出した私は、ここで今更ながらの重大事に気がついて全身から
 
              血の気が引いた。
 
              「あ、あのぉ着てない?」
 
              むき出しの膝にブラウス一枚の上半身は、パンツとストッキングをいつ頃か脱いだとい
 
              う事実を如実に物語っている。
 
              全く記憶にないんだけど、彼の前でストリップでもしたのかしら?
 
              「シワになるといけないんで、僕が脱がせました」
 
              不安より、焦りで全身を凍り付かせた視線を受け止めて、ライは爽やかに笑うと事も無
 
              げに言い切った。
 
              一日着潰して、よたった服がどうなろうと構いやしないんですけどね、ああ、でも人様
 
              のお布団に潜り込むのに汚れたお洋服じゃいけないわね…取り敢えず裸ってわけじゃ
 
              ないし、そう慌てなくても…あれ?
 
              「ブ、ブラしてない?」
 
              「苦しそうだったんで、それも脱がせておきました」
 
              「…あ、そう」
 
              全身を苛む倦怠感に感謝したのは初めての経験だった。
 
              わめき散らしたい場面だけど、体力的に無理。もういいわよ、胸の一つや二つ見られて
 
              減るもんでなし、恥じらいに頬染める年でもないもの。
 
              それより安眠、休息が先決じゃない。…ちょっと複雑だけど。
 
              「じゃ、行きましょうか」
 
              頷きかけて怯むのはライが下にスウェットしかはいていなかったから。
 
              いいえ、動揺するコトじゃないわ。匂いが気にならないよう、上は着ないってさっき行っ
 
              たじゃないの。
 
              「お願いします」
 
              再び抱き上げられて、今度は膝裏に触れる素肌を否応なく意識しながら、私は短い家路
 
              をゆっくり辿る。
 
              ドア二枚分の無力な己を体感ツアーは、少しの緊張といい知れない心地よさに包まれて
 
              あっという間にベッドの上。
 
              「へえ、住む人が違うと雰囲気が変わるものですね」
 
              サイドテーブルの小さなランプをともしたライが、しげしげと寝室を見回すけど安全圏
 
              に到達して気の緩んだ私はそれをぼんやり眺めていた。
 
              「眠い…」
 
              痛みに痺れる脳が要求する睡眠に耐えられず呟くと、視線を戻したライがそっと私の額
 
              にかかる髪をすくい上げる。
 
              「心配だな。梨々子さん、ひどく具合が悪そうだ」
 
              そうね、良くはないわ。
 
              「寒くない?冷たいよ」
 
              頬に移動した指先が動きを止めて、心配そうに寄せられた眉根に大丈夫と答えたいけ
 
              れど声が出ない。
 
              沈黙と、焦点の合わない瞳を彼がどうとらえたのか、スルリと隣に滑り込んだ温もりに
 
              その答えがあった。
 
              「暖めてあげるから、ゆっくり眠ってね」
 
              平気、一人で大丈夫…。
 
              それでも寄り添う体温が気持ちよくて、抗議の言葉を発することなく私は睡魔に飲み
 
              込まれていった。
 
 
 
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             ライ、本領発揮(笑)。
 
 
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