8.手強い部下。      
 
 
           「随分ごゆっくりだな」
 
           デスクについた私の前には、意地悪く唇を歪めた課長が一匹。
 
           「始業時間1分前は決してゆっくりじゃありませんよ。拘束時間は8時間の契約ですから」
 
           「…皆5分前には準備にはいるのが二課の常識だ」
 
           「よろしいんじゃありませんか?私は庶務係所属で関係ありませんけど」
 
           2人の間に剣呑な空気が流れた。
 
           出向を命じられてから3日、早く元の職場に戻りたい一心で最速で仕事をこなすけど終わ
 
           りやしない。
 
           山と積まれた書類は日々増えていくし(後から後から引っ張り出してくる輩がいるのよ)、
 
           片手間にお茶くみを言いつける社員もいる(自分でやれ!)。
 
           そうこうするうちに課長との舌戦は激しさを増し、早くも二課の新名物となりつつあった。
 
           …非常に不本意なんだけどね。
 
           「人事課に掛け合って、君をここの所属にもできるぞ」
 
           額に青筋立てちゃってまぁ。こんな女が自分の部下になるなんてイヤだって思ってるくせ
 
           に、くだらない脅しをかけてくるんだから。
 
           「では以前こちらに来ていた女子社員と、同じ真似をしてみましょうか?」
 
           にっこり笑って周囲を見渡せば、聞き耳を立ててた男性諸氏が一斉に明後日の方向を向く。
 
           「彼女たちの容姿ならいざ知らず、君が相手じゃ誰1人相手にしないから問題はないな」
 
           あー、そうね。確か初日にも似たようなこと言われましたっけ!
 
           しかし、ここで表情に出してはいけない。バカにされた時こそ冷静に、かつ鋭利に相手を
 
           逆撫でしてこそ効果があるってものよ。
 
           「ですから余計いいんです。美女に迫られる迷惑なら我慢もできようってものですが、私
 
            が科を作って皆さんを誘惑しようと頑張ったら、苦情が殺到しますよ?」
 
           はい、一勝。
 
           憎々しげに睨まれたって、痛くも痒くもないのわ。むしろ快感。
 
           邪魔者を沈黙させたところで、昨日持ち帰ってまで製造したモノをドンと机に放り上げた。
 
           「課長、皆さんに伝えて頂きたいことがあるんですが」
 
           踵を返しかけた敵を呼び止めて、でかでかと張り紙されたトレーを指す。
 
           社員との直接対話を禁じたのは自分なんだから、伝言は頼まれてしかるべきだろう。
 
           『課長』『精算』『清書』の分類は、書類と戦ってきた私が考案した苦肉の策なのよ。
 
           「以後私のデスクに無造作に紙を放り出すのをやめさせて下さい。子供じゃないんです、
 
            仕分けくらいは簡単でしょ?決済が必要なモノは課長に直接回して、出張費用等の申請
 
            は私が経理に回します。清書も時間を見つけてやりますが、急ぎのモノは至急の付箋を
 
            付けるように。でないと他のものと紛れて後にされる恐れがありますから」
 
           一気に説明すると、苦り切った顔が僅かに驚きの表情を見せる。
 
           「作ってきたのか?時間外労働はしないんじゃなかったのか?」
 
           「…したくありませんよ。でも仕方ないんです、このままじゃ効率が悪すぎていつか残業
 
            するハメになりかねない。先手を打つには多少の犠牲を払わないと」
 
           「持ち帰るくらいなら、ここでやっても同じだろうに」
 
           「できないから家でやったんです」
 
           その辺には深くつっこまないでもらいたいの、定時に上がらなきゃならない事情があるん
 
           だから。
 
           「ファイリングはご自分達でお願いします。仕分けはアイウエオ順ですよ」
 
           追撃をかわすため更に言い募ると、一瞬何事か言いかけた課長は小さく頷いて席に戻って
 
           いった。
 
           やれやれ、プライベートを詮索したくなるほど仲良くなってなくて大正解ね。
 
           男連中を呼び集める声を聞きながら、時間いっぱい全力で紙束とケンカを始めたっていう
 
           のに、悲劇は終業1分前にやってきた。
 
           「ごめん、ホントにごめん!」
 
           謝り倒されたって、このやっかい品が消え失せる訳じゃない。拝む仕草の営業マンと、メ
 
           モ書きに毛が生えた程度の書類を交互に見て、声を絞り出す。
 
           「困ります!私…」
 
           チラリと視線を送った時計の針に急かされて、胸が痛んだ。
 
           朝までに清書を済ませないと出張先に持って行けない書類、大事な取引だってわかってる。
 
           でも、もっと大事な人が私を待ってるのに…。
 
           「どうした?」
 
           騒ぎを聞きつけて現れた課長が気にしているのは、言いつけを破って男性社員と話をした
 
           コトなんだろうけど、嫌みに付き合う心の余裕がない。
 
           説明に割く僅かな時も無駄にしたくなくて、私は猛然とキーを叩きはじめた。
 
           どちらも片づけなきゃならないなら、まず目先のことからよ。
 
           視界の隅で成り行きに聞き入っていた課長が、邪魔としか思えない問いかけをくれたのが
 
           イライラに拍車をかけた。
 
           「自分でやるように言った方がいいか?」
 
           「無理ですよ。企画書が片づいてないんです。提案書までやらせたら朝になっても終わり
 
            ません」
 
           そう、この男ワープロソフトも使いこなせないくせに下準備が訂正だらけなの!
 
           数日前に書類を起こした時は上の承認を取る前で、多数直しをくらっていたのに放置して
 
           別の仕事に手をつけていたって言うから呆れることこの上ない。
 
           もちろん後始末は自分でしてもらうけど、サラの書類まで指一本で打ってたんじゃ会社に
 
           大損害を与えるハメになる。
 
           「一枚作るだけです。5分あればなんとかします」
 
           でも、その間にバスは出てしまう。次を15分待ったら私の約束は守れない。
 
           「…早く帰らなければならない理由があるんじゃないのか?」
 
           「わかっているなら邪魔しないで、集中させて下さい」
 
           それきり静かになった課長を意識から飛ばして、大馬鹿者にデータを渡し走ってもやっぱ
 
           りバスは行き過ぎた後だった。
 
           「…電話しなきゃ…」
 
           タクシーを捕まえることも考えたけれど、そんな経済的余裕はない。
 
           ベンチに座り込んでバッグから携帯を引っ張り出した腕を、不意に大きな手が引いた。
 
           「課長…?」
 
           不機嫌な顔も、威圧感ある立ち姿も、宿敵星野緑に間違いなくて訝しげに見上げるのが精
 
           一杯。
 
           どうしてこんなところにいるの?なんで捕まえるの?
 
           「あ、もしかして書類にミスが…」
 
           焦って仕上げたモノだけに自信がない。弱みを握られるなんて口惜しいけど、怒られても
 
           反論のしようがないな。
 
           こっちもあっちも失敗で軽く落ち込みかけてた私を、道路脇の車に押し込んだ課長はシー
 
           トベルトを締める頃ようやく口を開いた。
 
           「どこまで行けばいい。バスを待つより早いと思うぞ」
 
           「…え?」
 
           会社に連れ戻されるんじゃないの?
 
           予想外のセリフを聞いて呆然としていると、初めと同じぶっきらぼうな口調でもう一度行
 
           き先を問われる。
 
           「急ぐんじゃないのか?」
 
           「ええ…はい、それじゃ○○町まで…」
 
           「わかった」
 
           素早く車線に入った車に遅ればせながら感謝の意を述べることを思い出して、それでもわ
 
           き起こる疑問を口にせずにはおれなかった。
 
           「どうして…?私のこと嫌ってるんじゃないんですか?」
 
           普通よく思っていない相手に親切心を起こす物好きはいないだろう。
 
           少なくとも自分はそうだもの。
 
           横顔を見やっても答えを見いだせそうな雰囲気はない。相変わらず唇は引き結ばれてるし、
 
           眉間の皺もそのままだ。
 
           「…部下の不始末は上司の責任だ。君は今日片づけるべき仕事を終えていたのに、あの時
 
            間にやっかい事を押しつけられて予定が狂っただろう。穴埋めはする」
 
           律儀な人ね…。
 
           それでも理由がわかるなら、この事態は非常にありがたい。ようやく気を抜くことができ
 
           て深くシートに沈み込むと、しばらくは続く沈黙を楽しむことさえできた。
 
           言い合わずにいられるのは、精神衛生上大事よぉ。
 
           「ひとつ、聞いていいか?」
 
           気が抜けていたから、そう聞いた課長の言葉にうっかり頷いちゃったのよね。
 
           乃木美月、一生の不覚だったわ。
 
           「君が総務の、しかも庶務係なんかにいたのは早く帰らなければならないことと関係があ
 
            るんだな」
 
           「…それ、質問ではなくて確認ですよ」
 
           決めつける口調に見えはしないとわかっていても柳眉をひそめる。
 
           「総務は会社に必要な部署です。庶務係の仕事もそりゃあ二課に比べたら、子供の遊びみ
 
            たいなモノかも知れませんけど、私の能力には適した職場ですよ」
 
           「違うだろ」
 
           直後にきっぱり切り捨てて、彼は反則技を出したのだ。
 
           緩やかなカーブを描く口角はいつもの皮肉を欠片も含まず、ガラス越しに冷たく光るはず
 
           の瞳は綺麗な三日月をかたどって。
 
           カチリとスイッチが音を立てた。
 
           昨日の敵は今日の友、宿敵が見事な変貌を遂げて恋愛対象にまで下克上よ。
 
           らしくなく朱を纏った頬を隠すため興味もない歩道に視線を移しても、追ってくるテノー
 
           ルが鼓動を押し上げていく。
 
           「仕事に対する姿勢も、能力も、どこの部署でも通用するモノだ。ただ、社内で定時入り
 
            定時上がりができる条件を付けると庶務係と受付くらいしか候補はない。まあ容姿を採
 
            用条件に含む受付では無理があって庶務にいると言うところか」
 
           …むかつくわ。また外見をけなされたからじゃないわよ、嫌み言いつつケンカしながら勤
 
           務内容を認めてもらえてたってのがしゃくに障るの。
 
           周囲に目が行き届くなんて、これじゃいい上司みたいじゃない。益々恋愛モードが断ち切
 
           れないじゃない。
 
           「一体理由はなんなんだ。責任感も意欲もそこらの女子社員に負けないくらい持ってる君
 
            が、あえて閑職に甘んじる訳は」
 
           答えないのが妥当なんだと、命じてくる理性が疎ましいくらい、真実を告げろと本能が騒
 
           ぐ。誤解されないように、自分を知ってもらえればきっと恋への道が開くから、と。
 
           大嫌いな上司と、不覚にも好意を持ってしまった男、せめぎ合って勝ったのは素の自分。
 
           「そこを右に入って下さい」
 
           降ろしてもらおうと考えていたバス停を通過して交差点を示すと、なめらかな動作で銀色
 
           の車体が路地に侵入する。
 
           「少し先に駐車場がありますから、そこで停めて」
 
           短い説明に返事はなく、静かなエンジン音だけが密室を支配して、その間も自問自答は続
 
           いてく。
 
           秘密、なんだけどな。言ったところで仕事に差し支えるコトはない、ハズだけど。恋愛と
 
           したら大きなマイナスを被るんじゃないかしら。
 
           「ここ、か?」
 
           訝しげな声に、やっぱりと苦笑しながら困惑する課長を仰ぎ見た。
 
           「一緒に行きますか?」
 
           「…ああ」
 
           戸惑いより好奇心が勝利した、そんな感じね。
 
           夕暮れはとうに過ぎ、宵闇と言う方が正しい風景に浮かぶ可愛らしい建物は、私の大切な
 
           人が待つ場所。
 
           少し送れてついてくる影を確かめながら、ひとつだけ明かりの灯る窓と早足で距離を縮め
 
           ると、飛び出してくる小さな体が視界を占める。
 
           「みーちゃん!」
 
           「アスカ!」
 
           お決まりになってる儀式に、送り出してくれた保母さんが優しい微笑みを浮かべていた。
 
           「ちょっと遅刻だよ!」
 
           抱きしめる腕の中で柔らかな頬を精一杯膨らませる姿は、天使だわ。
 
           「ごめんね、でもほんのちょっとじゃない」
 
           課長のおかげで被害は最小限に留められたのよ。いつもよりほんの10分、お迎えが送れ
 
           ただけだもの。
 
           それでもご機嫌の直ることのない天使を抱き上げて、保母さんと帰りの挨拶を交わす頃、
 
           じっとおとなしくしていた人物がようやく事態を把握したようだった。
 
           「…君の子か?」
 
           くたびれたおばさんみたいな私と、ふわふわの巻き毛にお人形さんのような容姿のアスカ
 
           とを行き来する瞳は、真実を計りかねて揺らいでいる。
 
           「残念ながら兄の子です」
 
           類似点を見いだせずにいた課長は、瞬間納得したのに再び顔をしかめる。
 
           「なぜ君が迎えに来るんだ。お兄さん夫婦は?」
 
           さて、困ったわね。4つとはいえ多少なりと大人の話を解するアスカの前では、あまりし
 
           たくない内容の会話なんだけど、ここまで見せて説明無しって訳にもいかないし。
 
           言葉に詰まって小さな少女を見下ろすと、無邪気な子供はどこまで知っているのかサラリ
 
           と真実を述べてしまった。
 
           「ママもパパもアスカを置いてっちゃったの」
 
           可憐な笑顔でなんでもないことのように言うけれど、だからこそ私の胸は痛むのだ。
 
           くそ兄貴、今度顔見たら絶対はり倒してやるんだから!
 
           「…そうか。でも君には優しいおばさんがいるからうらやましいな」
 
           感傷に浸っていたこちらより早く、適切なフォローを入れた課長の微笑みに完全にノック
 
           ダウンしたのは直後のこと。
 
           落とした腰で子供と目線を合わせて、柔らかな笑みが余計な恐怖を与えない。
 
           どうして子供慣れしてるのよ、調子狂うを通り越して恋におちちゃったじゃない!
 
           「うん。アスカ、みーちゃん大好き!」
 
           しがみついてきた体が、熱い顔も跳ねる心臓も包み隠してくれることを願いながら、強く
 
           強く抱きしめた。
 
 
 
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                     なんとかラブな空気が流れはじめました。 
                     サイト初、子持ちヒロインです(笑)。        
 
 
 
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