10.解けた糸。       
 
 
           この人にはホント感心しきり、ね。
 
           昨夜仲良くご飯を食べた仲だって言うのに、週末には遊園地に行く約束までしたのに、今
 
           朝の態度は今までのそれと何ら変わらないんだから。
 
           「経理から書類提出の催促があったが?」
 
           メガネをきらりと光らせて、仏頂面が言う。
 
           「昨日のうちに香川女史に渡しておきましたが?どうせ部長辺りに言われたんでしょう、
 
            偉い方は下々の仕事を全く把握なさってませんから」
 
           やれやれと頭を振ってみせるオプションをつければ、廊下から小さな歓声が上がった。
 
           新名所にとうとう観客までついたってことか。みんなよっぽど暇なのね。
 
           無言の睨み合いは優劣を競うまでもなく、私の勝ち。
 
           おかしいわよね、社内では簡単に勝てるのに、どうして昨日は言いくるめられちゃったの
 
           かしら。
 
           「…資料整理はどこまで進んでいるんだ?」
 
           ディスプレイを睨むふりで考え込んでいると、まだいた(失礼な…)課長が問うてくる。
 
           「ほぼ完了に近いです。ファイリングは本日中に終了しますし、未決書類の決裁は課長印
 
            を頂けば終わる状態ですから」
 
           「…昨日定時上がりしなければ終わっていたんだがな」
 
           なにげに付け足した嫌みに、嫌み返しとはやるわね。
 
           でも、ソコを突かれると痛いのも事実。何しろ私のせいだもの、しかも私用だし。
 
           無様にも言葉に詰まって俯くと、デスクを一枚の紙が滑ってくる。
 
           …辞令?…はぁ?!
 
           「なんですか、これ!」
 
           取り上げた書類を指の跡がつくほど握りしめて突き返すと、人の悪い微笑みがこちらを見
 
           据えていた。
 
           「字が読めんのか?まさか、優秀な君に限ってそれはないよな。偉い人間も下々の働きぶ
 
            りに目を配ってる証拠だ。穴が空くほどじっくり読み給え」
 
           正に揚げ足取りね!さっきのセリフをまんまもじるなんて、どこまで人が悪いの?!
 
           『乃木美月 本日付けをもって総務部庶務係より営業部営業第二課への転属を命ず』
 
           誰?こんなロクデナシに惚れたお馬鹿さんは!
 
           怒りに震える体をどうにかこうにか押さえながら文字に見入っていた私は、かがんだ課長
 
           が耳元に声を吹き込むのを許してしまう。
 
           「事情を知ってる上司の下で働いた方が、都合がいいだろう?」
 
           一瞬で真っ赤に染まったのは、一生の不覚!その甘い声にもう一度惚れ直しちゃったのは、
 
           絶対忘れたくない事実。
 
           この男…憎らしいほど好き、だわ。
 
           赤く染まった口の悪い部下と、したり顔の人の悪い上司は、周囲の憶測を呼ぶには渇仰の
 
           材料でフロアはおろつくし、廊下はさざめく。
 
           どうするの、収拾つかないこの状態!
 
           「乃木美月は今日から営業二課の正式な仲間だ。お前らも彼女の言うことはきちんと聞く
 
            んだな、でないとどうなるか俺自身が数日かけて証明してやったんだ、わかるだろ?」
 
           底冷えのする微笑みで全体を見回せば声の出せるモノなどおらず…恐怖に引きつった視線
 
           を私に送るの、やめて頂けません?
 
           「今日は殊更気をつけて乃木女史に接することだ。なにせ辞令を読んで赤鬼に変貌するほ
 
            ど喜んでらっしゃるからな」
 
           と、締めくくれば納得とばかりに廊下の気配が消えていった。営業マンたちは顔色を無く
 
           して己の仕事に戻ってるし。失礼ね!私の存在があなた方にもたらしたのは快適な環境じ
 
           ゃない。脅したり怒鳴りつけたりしたことはないわよ…ねちねちいじめたけど。
 
           「よかったな、妙な噂が立たずに済んで。…貸し一つだ」
 
           罠よ!でっかいトラップにはまったわ!!
 
 
 
           「…これが借りをお返しすることになるんで?」
 
           古いアパートのイマドキ珍しい木製扉の前、はしゃぐアスカを腕に抱いた理解不能人物に
 
           最終確認を送る。
 
           「もちろん。有能な部下のとっておき料理を頂くのは破格の出来事だからな」
 
           「…好きに言ってて下さい」
 
           社外に出ても本日すこぶる優位の課長は健在で、諦めの吐息を一つ零すと安っぽいドアノ
 
           ブの鍵を回し、彼を暗い部屋へと招き入れた。
 
           「アスカー、おてて洗って着替えなさい。課長はストーブつけて下さいね」
 
           カーテンを引きながら次々に命じて、着替えを持った私はお風呂場に入る。
 
           6畳一間にお客を入れたら、服を脱げるスペースなんてどこにもないのよ。ジーンズと明
 
           るい色のざっくりニットは戦闘モード解除の印で、ひっつめてた髪もブラシを入れてふん
 
           わりとバレッタで留めて。
 
           ……決して、好きな人の前じゃキレイでいたいとかそんなんじゃないから。ちょっとした
 
           乙女心なんだから…世間でそれを照れ隠しと言ってもね。
 
           「お、そうすると年相応に見えるな」
 
           手慣れた様子で子供を着替えさせている課長は、視線をくれて微妙な感想を漏らした。
 
           「…いつもはいくつに見えてるんですか…それよりどうしてそう面倒見がいいの?」
 
           園児服を手近なハンガーに掛けるという几帳面さまで見せる彼に抱いた感想がこれ。
 
           一緒にアスカを迎えに行ってからここまで、課長はずっとアスカと話してた。童謡を歌っ
 
           たり、今日の出来事に耳を傾けたり、普通の男が時間をかけて覚える子供の扱いを熟知し
 
           ている。
 
           もしかして、隠し子でもいるの…?
 
           素直な顔が内心の疑問をすっかり吐露しちゃったと気づいたのは、心外だと言わんばかり
 
           に顔をしかめた課長がぽつりと自分の事情を語ったから。
 
           「両親が早くに死んでな、妹と弟を育てたんだ。今は同居してる甥の世話係」
 
           「ああ、今度一緒に遊園地に行くという…」
 
           「そう、それについても知らせることがあった。甥は来るが妹夫婦は無理だと言われた」
 
           僅かにしんみり空気を漂わせた後、そのセリフ?切り替え早っ!でなくて、えっ2人?
 
           「妹は店があるし、義弟は収録がはずせないんだと」
 
           焦るこちらはきっちり無視で、絵本を持ってきたアスカを膝に抱え上げた課長は既にこっ
 
           ちを向いてもいない。
 
           しかし、収録…?
 
           「テレビ関係者なんですか?」
 
           冷蔵庫を覗いてメニューを決めながら、流れで返した質問は叫んじゃう名前をサラリと
 
           運ぶ。
 
           「片桐薫、にっくき義弟」
 
           「へー…って、ええっ!!あの人結婚して子供までいるんですか?!」
 
           有線で一日一度は声を聞く有名シンガーが?ポスターもガンガン見かける恐ろしい美形
 
           が?!挙げ句えらい嫌ってません?
 
           「思い出したくもないが、あいつは大事な妹を妊娠させて臨月まで顔を見せなかった。今
 
            は幸せだと言うから放ってあるがいつか別れさせてやる!」
 
           握り拳を固めた課長にアスカが怯えなかったら、昔年の恨みをつらつら聞かされるハメに
 
           陥ったんだろうなぁ。…過保護なお兄さんを持って不幸な妹さんだけど、うらやましい。
 
           あのバカ兄に半分わけてもらいたいくらいよ。
 
           複雑ながら大事な秘密を一つわけてもらってご機嫌で、アスカ大好物のおっきなハンバー
 
           グを作り終えた私は、気味の悪い笑みを押さえることができなかった。
 
           日本中で数人しか知らないコトを教えてもらえたのは、信用してもらってるからだよね?
 
           ふふっ、へへっ…。
 
           「みーちゃん気持ち悪い」
 
           「子供に醜態を見せるな」
 
           同時に言わないで。悪かったわよ、食事の手を止めるほど不気味で、冷静になります。
 
           「はいはい、ごめんなさい」
 
           「はい、は一度でいい。アスカが真似たらどうする」
 
           うっわかったからお父さんみたいに睨まないでよ。
 
           教育にはうるさいらしい課長に眉をしかめて、アスカとバツの悪い視線を交わすと仕切り
 
           直しの返事をする。
 
           「はーい」
 
           「伸ばすな、母親のやることか」
 
           言ってからしまったと口元を押さえた課長、他意はないと慌てて子供を振り返る私。
 
           傷ついたりしてないよ…ね?ママに成り代わろうなんてつもり、無いからね?
 
           生まれてからこの方、母親を見たことのないアスカがその存在を求めてやまないことを私
 
           は知ってる。公園で、保育園で、無邪気に母親を呼ぶ子供たちをうらやましげに見やって
 
           いたのを。
 
           どう頑張っても、叔母さんはママにはなれないもの、ううん、なっちゃいけないってずっ
 
           と言い聞かせきたんだから。無責任な両親でも、自分の子だと言いたいほど可愛がってい
 
           ても真実をねじ曲げちゃいけない。
 
           怒るのか、泣き出すのか、初めてアスカに言ってしまった言葉の反応がわからなくて俯く
 
           姪をただ眺めるしかできないでいる。失言してしまった課長も、それは同じ。
 
           「…アスカね、みーちゃんがママならいいのにっていつも思うの」
 
           だから、小さな声が嗚咽をこらえる響きを持って聞こえた時、胸が押しつぶされるんじゃ
 
           無いかとニットを握りしめた。
 
           「でもね、みーちゃんはママにはなれないんでしょ?」
 
           「そんなこと無い!」
 
           こぼれた涙を見たくない、こぼした涙を見せたくない。きつく抱きしめて隠してしまおう。
 
           「みーちゃんだってアスカのママになりたいよ、だけど…」
 
           「アスカがそう思わないんじゃないか、みーちゃんはそれが心配だったんだよ」
 
           詰まってしまった言葉を引き取って、的確に私の心を代弁して見せた課長が小さな頭を撫
 
           でている。慰めるように慈しんで、彼女の悲しい誤解を解くように。
 
           「じゃあ、ママって呼んでいい?保育園でお友達に言っていい?」
 
           不安を宿した瞳で見つめられて、ただ頷くしかできない。だって声が出ないんだもの。嬉
 
           しくってどんどん泣けてくるんだもの。
 
           「誰に言ってもいいさ。大声で呼んでも構わない。みーちゃんは喜んでも怒ったりはしな
 
            い、絶対だ」
 
           広げた腕の中、2人一緒に閉じこめて彼が言う。静かに優しく歌うように。
 
           「ママ、ママ…ママ大好き…」
 
           「ママも…ママもアスカが大好き…」
 
           ああ、どこもかしこも温かくて、なんて幸せな夜だろう…。
 
 
 
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                     今回はここで終わりません。       
                     その勢いで次も読んじゃって(笑)。         
 
 
 
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