8.
 
              「ただいま、梨々子さん」          
 
              ベッドに崩れ込んできた石けんの香りに、眉をしかめたのは幾度目かしら?
 
              返事がないのをいいことに、もぞもぞとお布団に潜り込もうとするライを片手で止め
 
              ながらサイドテーブルのランプを点ける。
 
              5時…夕方じゃないわよ、朝よ。夜明け前の一番安らかなまどろみの時間よ?
 
              これだから時間不規則商売は!
 
              「どうして素直に自分のベッドで眠れないの!ここは私の部屋、わかってる?」
 
              「わかってるから来たんでしょ。何度言っても僕の部屋で待っててくれないの梨々子さ
 
               んじゃない」
 
              「他の女の匂いが染みついた布団で、眠れるわけないでしょ?!」
 
              すねた子供の戯言に、勢いで返して失敗に気づいた。
 
              「妬いてるんだ、可愛い」
 
              無駄な抵抗を払いのけて、ライが満面の笑顔で飛びついてきたのは必然。
 
              言葉のアヤなのにぃ…ちょっぴりはね、嫉妬も入ってるかも知れないわよ。だって自分
 
              の飼い猫が知らない人になついてたらショックじゃない。
 
              でもほら、そんな理由じゃなくて…いえ、それが嫉妬?
 
              「大丈夫、僕の一番は梨々子さんだからね」
 
              無限スパイラルに入っちゃうことが最近多い気がするわ。それで考え込んでる隙を突
 
              かれていいようにされちゃうってパターンが定番なの。
 
              「好き、大好き…」
 
              囁きならがら深く口づけられて、なし崩しに受け入れる。
 
              大事なことを忘れて、流れに乗るのは簡単なんだけどね、一番って言うのは気にくわ
 
              ないと思わない?
 
              この男には二番も三番も、きっとその先だっていっぱいるはずなんだから。
 
              「ストップ」
 
              勢いづいて首筋に胸元に進もうとした頭を押しとどめると、私は布団を引っ張り上げ
 
              た。
 
              「もう少し眠れるわ。睡眠不足で出勤すると、仕事に差し障るのよ」
 
              僕のモノ宣言から10日、いつ手に入れたのか合い鍵を使って不法侵入を繰り返す隣人
 
              に貴重な睡眠時間を削られているのだ。
 
              際どいところで最後の一線は守り抜いてるけど、このままじゃ踏み越えるのも遠くな
 
              い。
 
              その前にはっきりさせなくちゃいけないことがあるのに、半覚醒の虚ろな頭で襲われ
 
              てなるものですか。
 
              「しょうがないな…おやすみなさい」
 
              子供にするような頬にキスをくれると、ライは私を抱きしめてさっさと夢の国の住人に
 
              なった。
 
              わきまえてるというか、飢えてないというか、諦めのいいこんなところは感心しちゃう
 
              けど、ここで寝るのね。
 
              何のために自分の部屋があるのよ…。
 
              
              早朝襲撃で、疲れが溜まっていたその日の夕方、嵐は来た。
 
              「あんたね、ライの一番て」
 
              やっと気の抜ける自宅について、後は鍵を開けるだけなのに、背後からアンタ呼ばわり
 
              とは失礼な。
 
              憤慨して振り向いた先には、いかにも出勤前のばっちり決めたお嬢さんが仁王立ちして
 
              る。
 
              ライのお得意さん?それとも個人的に付き合いのある女性?どちらにしても奴絡みに
 
              違いはないようだけど、
 
              「私にどうしろと?」
 
              単刀直入、下手な前置きは無しでいこうじゃないの。
 
              「ライはみんなのものよ。ルールもわからない女に関わってほしくないの」
 
              こちらもストレートな返答で、睨みつけてくる。
 
              みんなのもの…アレは共有財産だったのか。べたべたごろごろ張り付いて、のべつ幕
 
              無しいろんな女性に甘えていると。
 
              どんな餌をもらってるんだか知らないけれど、ご苦労なコトね。
 
              「了解、それなら引き取って頂戴」
 
              面倒はごめんだわ。勝手になつかれた上に、ケンカまで売られるなんて割に合わない。
 
              話は終わったとばかりに背を向けて、キーホールを探す私に怒声が投げつけられた。
 
              「引き取れですって?どんな手を使ったのか知らないけど彼、あんたの部屋に入り浸っ
 
               てるそうじゃないの!もてあそんでおいて飽きたから捨てるなんて、何様!!」
 
              …すごい言いがかり。別れさせたくて来たくせに、頷けば怒鳴られるの?
 
              「鍵はポストに入れておくように言って。私は引っ越すつもりはないから、引き離したい
 
               ならあなた達でライに、別の部屋をあてがうのね」
 
              「…!!」
 
              小気味のいい破裂音が、長い廊下に響いた。
 
              肩をドアに押しつけられて、思い切り頬を殴られたらしい。
 
              自分の身に起きたことなのに、詳細が判然としないのは短時間に猛スピードでお嬢さん
 
              が動いたから。
 
              この上暴力沙汰とは…理不尽だわ…。
 
              「気は済んだ?」
 
              じんじんと鈍い痛みを伝えてくる頬を無視して、僅かに揺らぐ瞳を見つめる。
 
              ここで感情的に返せば、彼女のお気に召す修羅場になったんでしょうけどね。そこは年
 
              の功、冷静に出れば意外とコトは大きくならないものなのよ。
 
              「に、2度とライに近づかないで!!」
 
              捨てぜりふを吐いて、派手な靴音を響かせて退場したお嬢さんを見送ると、私はゆっく
 
              りとドアをくぐった。
 
              鍵を閉め、チェーンをかける。
 
              そうか…ライの襲撃が本当にイヤなら、こうしてチェーンをかけてしまえばよかったん
 
              だわ。
 
              驚いて、怒りをぶつけながらもそうしなかったのは、私が彼の来訪をきっと、待っていた
 
              から。子猫のようにすり寄るライを受け入れて、手に入れたモノの温かさに酔っていた。
 
              無邪気に好きって言われたの、久しぶりだったから?本人も忘れかけていた気まぐれな
 
              優しさを認めてもらえたから?
 
              …全部ね、全部ひっくるめて素の私を抱きしめてくれる腕が、好き、だったんだわ。
 
              皮肉なもので自分の心に気づいたら、彼は一人のモノにならないと教えられた後だっ
 
              たわけだ。
 
              人なつこい笑顔も、旺盛なサービス精神も誰かと共有するなんてごめんよ。
 
              大事な人は心も体も全て、ここに囲っておきたいんだもの。
 
              明かりのない部屋で、一人が寂しいと感じるほどに馴染んだ存在は手に入らない。
 
              痛む頬に手をやりながら、崩れるように座り込んだリビングにはラップのかかった皿が
 
              数枚並べられていた。
 
              勝手に出入りする気まぐれな猫が、置き手紙と一緒に用意していく私の夕食。
 
              「どこにでも、行けばいいのよ」
 
              ずっと、はっきりさせたいと思っていた答えは出てしまった。
 
              数ある一番じゃ、イヤ。たった一人の一番になりたい。
 
              指先に触れた手紙をくしゃりと丸めて、料理を皿ごとゴミ箱に捨てた。
 
              痛いのは、頬なのか胸なのか、よくわからない。
 
 
                                         
 
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             たまにはシリアスもやるんですよ、たまには、ね。
 
 
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