10.
 
                    最近調子でないなぁ
 
             寒風吹きすさぶ中、マンションのエントランスに帰り着いて考える。原因はやっぱり
 
             克巳のベッドで眠らなくなったことに違いない。
 
             1週間前のあの日、彼を帰した克巳はホントに部屋の鍵を替えちゃった。そんで、翌
 
             日にはなんでもない顔で『もう別れたから、気にすんな』って笑ったの。
 
                    …でも、気にするでしょ?あたしが原因なのに、自分の部屋で寝てたら起こらなかっ
 
             た出来事なのに。
 
             体験したことがあるから、余計に後味が悪いんだよね。好きな人のベッドに違う相手
 
             がいるのは決して許せるものじゃない。誤解だけど、ちゃんと説明せずに追い出しち
 
             ゃったんだもん、彼の中ではいつまでも傷として残るんだ。
 
             今までだってあたし同じことしてたと、気づいてみれば自己嫌悪の嵐。
 
             克巳には慰めでも、あたしには安らぎでも、恋人にしてみたら許せない。
 
             だからなのかな、傍にいるのがはばかられて店にも行かなくなった。家で顔合わせて
 
             もすぐに自分の部屋に引きこもるようになった。
 
             ミオさんや畑野さんが心配して訊ねてくれても、克巳がいると落ち着けない。
 
             不安を抱えても癒してくれる人はいないから、安らげるはずの家で疲労する。
 
             悪循環だわ今日辺り、ミオさんの家に泊まりに行っちゃおうかな。身の危険はある
 
             けれど、彼女ならつけ込んだりはしないもの。ばかねって、慰めてくれるもの。
 
             周りが灰色に見えちゃう視界でエレベーターを降りたから、すぐにはその存在に気づ
 
             けなかった。
 
             「あんたさえ
 
             低い声に顔を上げて、近すぎる影に一瞬声を失って、後の祭りって奴よ。
 
             「えっ?」
 
             ぶつかってきたのはさほど身長の変わらない細身の男。
 
             続く、熱。
 
             「あんたさえいなければ、克巳君は僕だけを見てくれたのに!」
 
             狂気じみた叫びに意識を向けることができなかった。それよりも奇妙な存在をお腹に
 
             見つけちゃったから。
 
             赤い柄の、ナイフ。どれほどの刃渡りがあったのか確認することは不可能。
 
             つまり全部埋まってるの、洋服越しにめり込むように。
 
             ジワリと深紅のシミを広げていく様に、目眩を覚えて膝を折った。
 
             痛い?それより熱い。刺されちゃったんだよね、このままだと、死ぬ?
 
             「あ
 
             走り去る背中は遠くにエレベーターの音を響かせるから、助けは呼んでくれないか。
 
             ジンジンと増してくる熱も、ゆっくり戻ってくる痛感も、変に冷めた頭で理解しなが
 
             らあたしは携帯をバッグから引っ張り出した。
 
             えーと、110番か?もう一個なんだっけ、救急車呼ぶのはああ、思い出せない。
 
             鼓膜を震わせる鼓動がうるさくて、集中できないよ。
 
             小さなボタンを探る指が、徐々に冷えて震えまで伴うことにいきなり焦りが襲って来
 
             る。
 
             急がないと、危険、きっと。
 
             『はーい?どうしたの、繭』
 
             履歴を頼りに発信した先は克巳だったのね。ミオさんだと思ってたのに、タイミング
 
             が悪いわ
 
             だからってかけ直す気力はもう無くて、視界も薄布を通したように霞んできている。
 
             「た
 
             声を出してみて驚いた。頼りなく震えて、全く言葉になっていないじゃない。腹筋が
 
             使えないせいなのか、恐怖に体が萎縮してしまっているのか判然としないけど、状況
 
             だけは伝えなきゃ。
 
             『繭?どうしたの、何かあった?』
 
             様子がおかしいことを察したのか、幾分緊迫してきた克巳に寒さで鳴る歯を宥めなが
 
             ら、ゆっくり言葉を紡いでいく。
 
             「さ、されたの。マンションにいるたすけ・て
 
             『っ!!刺された?!マンションて家か?!』
 
             途切れはじめた音声で彼が走り出したことを知り、男のものに戻っている言葉遣いで
 
             焦りを感じた。
 
             よかったこれで誰にも気づかれず死んじゃうって可能性だけは消えたわね
 
             『救急車は呼んだのか?!』
 
             「ま・だ
 
             『わかった、いったん切るぞ。消防に連絡したらまたかけるから』
 
             安堵で一気に体の力がぬけたけど、どうにか終了ボタンは押せたようだ。
 
             小さな電子音を確認して、手から滑り落ちた携帯を拾うこともできず、ただ増してい
 
             く痛みに意識を繋いでいたあたしは、すぐになり出した着メロを最後に現実からドロ
 
             ップした。
 
 
 
だーくへぶん  だーくのべる  
 
 
           ……………。                                  
               ノーコメント。                
 
 
 
             
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