4:呼び名
『カオリ』
彼が呼ぶと、私の名前でさえ旋律のようで。
大嗣兄さんの隣からこちらへ、ゆっくり近づいてくる姿に内心すくんでいた。
何故は、問うまでもないわね。得意げに微笑む兄さんと、喜びに顔を輝かせている春日さんをみればわかること。
ただ、私がその弊害を被る理不尽が腹立たしい。
『カオリ』
もう一度呼んで、間近まで来ていたルカの表情が不安に曇った。
『来ては、いけなかったかな?』
”そうよ、来てはダメ”
『そんなことないわ。大歓迎よ』
立ち上がって儀礼的にさしのべた手は引かれ、緩やかなハグを受ける。
『よかった!ヒロツグに君が妹だと聞かされて、どうしても会いたくて』
”私は会いたくなんてなかった”
『嬉しい偶然ね』
ラテン気質と欧米式挨拶を疎ましく思ったのは、生まれて初めてのことじゃないかしら。
疼き始めた恋心と自尊心に歯ぎしりしたい程なのに、浮かべた笑みは消えることはなくて。絶対漏れることのない本心に、安堵して失望する。
貴方に届かない私の声。
”気づいて”
”気づかないで”
相反した思いに、彼は。
『本当に!また、君のピアノも聴けたしね』
無邪気な顔をして笑うの。
悟られる心配などない、醜い心。悟って欲しい、愛する気持ち。
『おかしな人ね。私よりずっと綺麗な音を紡ぐくせに』
そっと蓋を閉めて、ルカをそれとわからぬようピアノから遠ざけソファーに導く私は、何を恐れているのかしら。
『僕が?カオリこそ、おかしなことを言うね』
ほんの僅かな距離、兄さんや春日さんという救い主の元まで、あと少し。
けれど、がらりと変わったルカの口調に、表情に、一瞬足を止めてしまった。
腕をやんわりと、なのに絶対的な力で捕らえる彼に戸惑って。
『…どこが?真実よ』
美しく深遠な演奏を褒め称えているのは、私じゃない。世界中の聴衆と批評家なのに、ルカの唇を彩る微笑みとは裏腹に瞳が知らない昏さを湛える。
『世界が、甘く優しいものだけで溢れていたら、きっと』
『え?』
それきり。
吐息がかかるほどに近づいていた顔は離れ、天使のようだと評される笑みで何もかもを覆い隠したルカは、夕日に映える庭を振り返った。
『素晴らしいバラだ。ねえ、あの中を歩いたらダメかな?』
彼一人でそうするというのなら、私は止めることはしないけれど。
逡巡するのは、言外に一緒にどうだというニュアンスを感じ取ったからにほかならず、探るようにこちらを伺うルカにうまい断りを考えていたからで。
『是非、行ってらしてください。その間に夕食をご用意いたしますから』
思わぬ横やりに、本当は頭を抱えてしまいたいくらいだったの。
『楽しいディナーに致しましょうね?』
春日さんに無言のお願いをされては、大嗣兄さんにまで目で頼み込まれては、断れないわ。
全くもって珍しいことだけれど、諦めるしかないようね。もう数時間、鉄壁のポーカーフェイスを保つしか。
『では、少しだけ。ただし、品種名を尋ねたりしないでね』
当たり障りなく終わりますように。久しぶりに会った友人同士の和やかさで、短い散歩を終えられますように。
願っても願っても、叶わないくせに、どうしてまた無駄なことをしてしまうのか。
そんな疑問に苛まれたのは、むせ返る香りの中を歩き出してすぐのこと。
『どうして、僕の名前を呼ばないの?』
一歩、後ろを歩いていた彼の問いかけに足を止めた。
そうだったかしらと、思い返せば確かに呼んでいなかったかも知れない。
『あら、本当。そう言われれば』
他意はない。だって、意識したこともなかったもの。
嘘ではないから、微笑むことさえできたのに。
『そう?じゃあ、呼んで』
『え?』
『僕を呼んで。いいでしょ?』
ねだる口調とは裏腹に、断れない強さを感じて、眉をひそめる。
『おかしなことに拘るのね』
『ダメ?簡単なことだと思うけれど』
ええ、とてもね。だからこそ、呼ばずにすます方法をいくつも考えている私こそが、拘っているのだと気づいた。
カオリ?と、促されて、彼の何気ない様子に、戸惑い、迷って、声にする。
『…ルカ…』
それは、自分でも驚くほど震えて、細く掠れ。
『そう…欲しいものは望まなくてはね、手に入らない』
どういう意味なのか、聞くこともできずに抱きしめられていた。



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