5:ずっと言えなかったこと
『ねえ、君の声はとても正直なんだと、知っている?』
狼狽えたまま指一本動かせずに固まる私の背を、大きな掌はゆっくり撫でる。
『僕を呼ぶ時だけはほんのちょっと、高いんだ。揺れて、弾んだ音』
耳に届く小さな笑い声こそ弾んでいるくせに、嬉しそうなルカはどれだけ私が彼に暴かれていたのかを陽気に話す。
『ちゃんと、気持ちが聞こえるんだよ?好き、好きって、名前を呼ばれると響く』
私の手を取ったルカが、それを自分の胸に押しつけた。
『ここに、届く』
指先で胸に触れたって鼓動が伝わることなどないけれど、見下ろしてくる眼差しと真剣な声にこっちこそ心拍数が跳ね 上がり、聞こえてしまいそう。
表情をなくすことなど簡単で、感情を隠してしまうことなど呼吸をするようにできたはずなのに。
『幻聴か思いこみ、でしょ』
ようやく取り戻せた落ち着きに、微笑んで冗談にしてしまおうと思いついた。
例え気持ちがばれてしまっても、誤魔化しきればすむ話。煙に巻くのは隆人くんより得意だもの、その気になれば音楽 以外に疎いルカを騙すことなど赤子の手を捻るように易いはずよ。
『僕の耳を疑うの?君のプライドのために?』
けれどそんな余裕は、初めて見た険を含んだ瞳に露と消え。
『…どういう意味?』
『言葉通りだよ。素直になれないのは、音楽的嫉妬のせいだと、知っている』
1オクターブ低くなった声と、闇を帯びた瞳と。覗き込むルカの全てを、私は初めて見た。
柔らかな美貌を誇るプリンスだとて牙を剥くのだと、雄特有の野生を滲ませて彼が踏み込む。
容赦なく、深層まで。
『何故、比べるの。並び立つことは罪?世界には人間の数だけ音楽があるというのに、カオリは自分の音を否定する』
『そんなこと…』
『しているよ。もうずっと、長い間』
斬りつけられて血を流し、嫌な男だと眉をひそめた瞬間に私の中で絶対だった音楽の天使が、俗世に堕ちる。
ヴァオイリンから溢れるのは、美しいモノばかりではないのだ。
”世界が、甘く優しいものだけで溢れていたら、きっと”
その先はもう、聞く必要がない。
わかったわ、ルカ。透明なだけの音色に、人は心打たれないのね。喜び、悲しみ、痛みを知って初めて優しさが生まれ、 それら全てを紡いで織り上げ詠わせるからからこそ、あなたの音は美しい。
囚われていた枷が消えれば、溶け落ちるのは道理で。
『……私には、出せないの』
『うん』
ほろりと、零れた雫を自分のシャツに吸わせて、ルカは優しく私を抱きしめた。
『誰をも包み込んでしまう音色を、持っていない。どれほど丁寧に楽譜を辿っても、音楽で人を癒せない』
上手なピアノではなく、響くピアノを弾きたくて、弾けなくて。
あなたに支えられながら、あなたを支えられない自分が悔しかった。
そうした自己憐憫で雁字搦めになった私は、彼から逃げることでしか自分を守れなかったの。もっともらしい言い訳ば かり考えて、押し殺した気持ちが溢れることを固く禁じて。
自己嫌悪に流れるばかりの涙を、体を離して頬を包んだルカが拭う。止めどない感情を掬うように、溶け落ちた 嫉妬と愛情を丁寧に丁寧に。
『あんな”音楽”を、奏でたかった』
絞り出した掠れ声を唇で、拾い。
『僕も。僕もカオリのような”音楽”を作り出したかったんだよ』
ルカが笑う。はにかんでいるみたいに、羨んでいるみたいに、曖昧な微笑みでもって。
『君の音は夢みたいだ。美しく煌めいて陰りなんて欠片も含まない。天上の音楽』
驚いた拍子に涙さえ止まって見上げる私を抱きしめると、吐息と共に漏らされる天才の本音。
『僕のヴァイオリンが癒しなら、カオリのピアノは希望だ』
羨望とは、誰もが持つものらしい。
つまり、隣の芝生は青い、のよね。1人の人間が紡ぎ出せる音楽は、一つだけ。どれほど望んでも自分以外の何者かに はなれないように、人生そのものを映す音色を真似る事なんてできやしない。
『羨んで…時間を無駄にした気がする』
目指せば良かった、高みを。欲すれば良かった、あなたを。
悔恨の呟きを聞き止めて、彼は陽気な笑い声を立てた。
『遠回りは、人生のスパイスだよ。何事も遅すぎることはないのだし、そう…差し当たって、僕にキスしてみたらどう?』
答えは、決まってるでしょ?随分遅れちゃったけれど、受け取ってね?



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