3:今の距離

「行くんじゃなかった…」
それを聞くの、今日は何度目かしら。
夫婦同伴の出張から戻った春日さんは、CDケースに燦然と輝くサインを指して大仰にルカ・メランドリを語る早希ちゃん と会ってから沈みっぱなし。
料理をしながら、母さんの仕事を手伝いながら、暇さえあれば溜息混じりに後悔の嵐だと主張する。
彼女、美貌もさることながら本気で彼のバイオリンが好きなんですって。
ラジオ越しに流れてきた旋律に魅了され、ネットを駆使して奏者を調べると即刻CDを購入して聞き込んでいたらしい。
当日、自分が家にいればプレミアがついていた彼のコンサートチケットを入手できたのだと知って以来、本気で沈んで 手がつけられないのよね。見たかった聴きたかったって、呪詛のように呟きっぱなし。
あんまり残念がるんだもの、大嗣兄さんなんて次回に予定されているニューヨーク公演のチケットを、極秘で手配している くらいよ。
自分にも責任の一端があるとかもっともらしいこと言っちゃって、ただ2度目のハネムーンを楽しもうって魂胆なのは見え 見えなのにね。
まあ、それで2人が幸せになれるのなら、いいけれど。
「でも知らなかったわ。春日さんがそんなにクラシック好きだなんて」
シンクにもたれて項垂れる兄嫁が多趣味なのは知っていたけれど、たまぁに口ずさんでいるのはヒット曲ばかりじゃな かったかしら。コンサートやオペラに行くってこともなかった気がするわ。
問いかけられた彼女はそうですかぁなんて間延びした声の後、クラシックを好む理由をあげつらう。
「普通に聴きますよ。タイトルがわからなくても耳馴染んでるんで意外にいけちゃうんです。それに大曲が多いですからね、 CD入れ替えなくて済むのが楽で」
…なんだかものぐさなものもあったけれど、とにかく好きは好きなのね。
合理主義な彼女らしい回答に微笑みながら、それじゃあ久しぶりにここで弾いてみようかなんて気紛れを起こした私は、 随分触っていなかったリビングのピアノの蓋を上げた。
豪華な部屋に負けないグランドピアノは、帰国してから一度も触っていなくて、私以外弾く人もいない近衛家では 置物ような扱いを受けている。
「あら、それ飾りじゃなかったんですね」
カウンター越しにこちらの様子を見ていたらしい春日さんは、軋む椅子の音に振り返った。
「以前は良く弾いていたのだけれどね、今は全然。たまには音を出してやらなくちゃ」
訝しがりながらもいそいそとキッチンから出てきた彼女は、拝聴してよろしいですかと微笑んでソファーに座る。
有能が売りで、滅多なことでは自分の仕事を放り出さない春日さんを引っ張り出せたなんて、近衛家では私が初めてじゃ ないのかしら。なんだか、気分がいいわ。
「暗譜しているものなら、リクエストにも応えるわよ」
指慣らしに叩いて確認した音がちゃんと調律済みだとだとわかって、更にテンションの上がった私は春日さんを振り返る。
「ルカの代わりにはほど遠いでしょうけれど、一曲いかが?」
「では、ショパンをなにか一曲」
「ふふ、ピアノですものね。…じゃあ、エチュードの3番…別れの曲って日本では言うのよね」
誰もが知っている有名な曲の俗称は、なんだか思い出とぴたり重なって笑みさえ出るのだけれど。
静かで、どこか物悲しい旋律を奏でながら、浸るまいと思った。
あの頃、ピアノがあって仲間がいてルカがいた。消してしまいたいような記憶はなく、忘れてしまいたい感情もない。
スポットの中心で輝く彼とはこんなに離れてしまっても、後悔がないのなら浸ってはいけないのよ。
ショパンが作った美しい旋律を零さないよう、丁寧に拾って弾き進む。別れでも終わりでもなく、今を奏でる。
「素敵っ!!」
最後の1音が消えた後、僅かな余韻を楽しんで春日さんは興奮気味に拍手をくれた。
「すごく、すごく素敵です!どうしていつも弾かれないんですか?ううん、プロを目指したらいいのに」
「あら、お世辞でも嬉しい」
『やっぱり…君の音が好きだ』
それは、ここにいるはずのない人の声。吐息に大げさに過ぎる感情を乗せて。
振り返った先で、ルカが微笑んでいた。






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