1:久方ぶりの言葉

胸をかき乱すバイオリンの音が途切れ、一拍遅れて場内を怒濤のような拍手が満たした。
「すごかったね、歌織さん!」
興奮気味の早希ちゃんの声で我に返った私も、頷いておざなりに手を叩く。
アンコール用の小曲は、嫌がらせなのかしらと疑いたくなる『愛の挨拶』。
他意はないとわかってはいるのよ?クラシックを聴くことを生活の一部としていない日本人にも馴染みがあるからの チョイスだってね。
だけど、壇上で目映いスポットを浴び、四方に笑顔を振りまく美貌の外国人に、かつてバカみたいに恋していた私の古傷は 痛んだ。
もちろん相手はそんなこと露程も知らない、報われない片思いだったのだけれど、告白することさえ躊躇わせたのは、 この才能。
天才、神の愛し子、音楽の精霊。彼を湛える言葉は数々あって、そのどれもを冠するに値するだけの人物で。
「すごすぎて…自分が音楽なんかやってるの、恥ずかしくなっちゃうわよね…」
ぽつりと漏らした一言は、プロになるための最後の勉強だと留学した先で痛感した現実だ。
彼と出会えた、幸運と不幸。恋慕し、嫉妬した。
「え?なに?」
聞こえなかったと顔を寄せてくる早希ちゃんに、皮肉めいた笑みを漏らすと首を振る。
「素敵ねって言ったのよ」
未だ鳴りやまぬ拍手に鬱々とした劣等感を抱き、まだこんな感情が残っていたのかと悔しくなり。
もうとっくに昇華していると思っていたのに、案外しつこい人間だったのね私って。本人目の前にしただけで、容易く昔 の気持ちに引き戻されちゃうなんて、未熟だわ。
「さ、行きましょ。直接お礼を言いたいでしょ?」
ざわめいている会場でまだ席を立とうなんて観客はいないけれど、これ以上ここの場所にいるのは苦しくて。
兄譲りのポーカーフェイスで感情を隠すと、遅くなると本人に会えなくなっちゃうわよって嘘を吐いて早希ちゃんを外へと 促した。
アポイントもとってないんだから、バックステージには入れるわけはないっていうのは、秘密でね。


「申し訳ございませんが、こちらから先はお通しできません」
口調とは裏腹に、全く悪いと思っていない態のガードマンにおざなりな困り顔を見せて、私は傍らの早希ちゃんに心にも ない謝意を吐く。
「ごめんなさい、彼に連絡しておくのを忘れちゃったわ。別の機会をセッティングするから今日はこれを言付けて帰る ことにしてはダメかしら?」
抱えていた巨大な花束は、チケットのお礼にと彼女に持たされたものだ。
数日前、不幸の手紙のように『ルカ・メランドリ』から送りつけられた2枚の紙切れを、兄夫婦の家庭円満に役立てても らおうと押しつけたのが失敗だった。
確かに早希ちゃんは、少し前からアイドルのように報道されている若き天才バイオリニストに会いたいと騒いでいたが、 心がナノ単位に狭い我が兄は、みみっちくも当日の同行を拒否したのだ。
『大事な妻が他の男を褒めちぎるところなんて、見たくないね』
って、理由で。
ま、ここまでは予想の範疇というか、早希ちゃんを中心に地球が回ってる隆人くんなら言ってもおかしくないだろうと 思ってはいたんだけれど、ね。まさか彼女の相手をしてくれると踏んでいた春日さんを、大嗣兄さんが出張に同行するなん て予想外。まったく、新婚カップルって言うのは!
結果、絶対行くものかとチケットを見た瞬間に決めていたコンサート会場に私はいるの。
しかも、
『お礼はしなくちゃダメよ、歌織ちゃん』
とういう躾に厳しい母の厳命と、
『あたし、花束用意するから渡しに行きましょう!』
尻馬に乗ったミーハー根性満載の可愛い義妹(本当は義姉だけど、雰囲気的にね)にお強請りされては、強く断れるわけも なく。
『当日会えるように手を打っておくわ』
なんて爽やか笑顔で謀って、現在に至るのよね。
実のところ演奏を聴くまでは、久しぶりに会ってもいいような気になっていたのも事実。
けれど、自分が3年前から 少しも成長できず未だ醜い嫉妬で胸を焦がすのだと知ってしまってはそうもできない。
忌々しい花をお仕事熱心なガードマンに押しつけて、すぐにも退散したいのよ。
「そう、ですね。混んで来ちゃったし」
なのに、多少の不満を残しつつも、ホールに溢れ出した人々に素直に頷いてくれる早希ちゃんが、可愛いからいけない んだわ。
残念ですね、と自分ではなくて数年ぶりの友人に私が会えないことを気にしてくれる健気さとか、威勢がいいくせに甘ちゃん で、鋭いくせに抜けてて、何年も近衛家の人間と付き合っているくせにあからさまな私の嘘を本気で信じる素直がいいの。
隆人くんがうざったいくらい執着しちゃう気持ち、わかっちゃう。
すっかり本題を忘れて早希ちゃんを抱き潰していたものだから、人生始まって以来の大いなる油断をしてしまった。
近衛歌織、一生の不覚というやつよ。
『よかった、まだいたね!』
イタリア訛りのある英語は深みのあるテノールで、早希ちゃんから強引に私を引きはがして抱きしめる腕に覚えがあって。
ほんのり香るムスクに、しまったと唇を噛みしめても、遅い。
『…いやだ、気付いていたの?』
薄暗い客席から見つけるなんて、無理だと思っていたのに。
『久しぶりに会えたって言うのに、第一声がそれ?ふふっ、君らしいね』
耳元で笑ったりしないで。動揺で心臓が飛び跳ねるわ。
『ああ、そうね。それじゃあ。ジャパンコンサートの成功、おめでとう』
ぐいっと胸を押しやって、感情を抑えきった声と微笑みで見上げた彼は。
大分伸びたブルネットを一つ括りにしていること、それ以外悔しいくらいあの日のままだった。



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