「なあ」
「はい?」
「好きですって言うてみ?」
書きかけの英単語のスペルは、その瞬間全て忘れてしまった。
動揺のはて目を上げた先で、混乱を招いた本人は涼しい顔でおみそ汁を啜っている。
密かに恋するキレイな横顔はどんな感情も写していないのに、なんでもないことのようにケロリとしてるのに。
どうして私だけ本心を隠そうとおろついているんだろう。一気に朱に染まった頬を見せまいと躍起になっているんだろう。
冗談言って、からかってるだけかも知れないじゃない。
「優ちゃん素直やもん。バレバレよ」
けれど、そんな希望はいとも簡単に打ち消され。
カリカリと音を立てるお漬け物だけが日常と非日常を繋いでいるのがすごく滑稽で、かち合った瞳が心臓を握りつぶす不意うちから逃れる機会を失わせる。
恐い視線。
深く潜って沈めておいた秘密を暴く、自白剤みたいな。
「…言ったら、いいことありますか?」
認めて失うものの方が多いなら、私はここにいたい。
中途半端は大きな幸せをくれないけれど、大きな不幸も招かないから。
臆病な問いに最後の一口を飲み込んだ彼は、フッと笑みを刷くと声を潜めた。
「それは言うてからのお楽しみ」


我が家は今時珍しい5人姉弟で、故に家計にはいつも余裕がない。
大学へ進学したお姉ちゃんはバイトで学費を稼いでいるし、弟妹も自分の未来に向け鋭意努力中。
かくいう私も夢である看護師になるため日夜勉学に勤しむ現状で、だけどちょっともう限界かも。
バイトの合間、塾にも行かず独学での受験勉強はさして頭の良くない身には厳しくて、そのうえ無謀にも奨学金まで狙っているんじゃこれ以上は無理だと思う。
と、すっかり諦めモードだった時、救いの神は現れたのだ。
「ちょっと女の子にだらしがなくて口と態度は悪いけど、頭はいいよ。夕ご飯を与えれば家庭教師くらいしてくれるけど、どう?」
いささか不安ではあっても背に腹は代えられず、親切なクラスメイトの紹介でその人に会ったのは一月ほど前。
「こんにちわ。北条聡介言います。仲良うしてな」
待ち合わせ場所に現れた大学生は、チラチラ振り返る女の人の視線を当然みたいに受け止める格好の良さで私を怖じ気づかせて。
なのに、楽しそうな笑顔に恋に落ちたのもその瞬間だった。


週に2日、夕食を食べながら勉強を教わるようになってかなり経つけど、先生は凪子ちゃんの言うような人だとはとても思えなかった。
5時にチャイムを鳴らし、食事の支度が調うまでの間弟妹達の宿題まで見てくれて、それから私の問題集と一緒に戦ってくれる。
8時に家を出るまで不埒な言動もなく、それどころか行動は紳士で理想の男の人ってこんな風かも知れないと憧れと妄想に拍車がかかる日々。
「優ちゃんはなんで看護師さん、目指してんの?…そこ、ちごとるよ」
「あ、はい。…えーと、手に職つけておけばお嫁に行けなくても生きていけるかなぁと。…これでいいですか?」
「ん、オッケ。君なら相手に不自由はせんと思うけどなぁ」
「そんなことないですよ〜カレシいない歴18年ですから。おかわりいります?」
「お願いします。そら、周りの男に見る目がないわ。今時ちゃんとご飯の作れる子ぉは、そうおらんのになぁ」
「あははは。じゃ、告白するのにお弁当つけたら、うまくいきますかね?」
「餌付けな、いい手や思うよ。ここに一匹、すっかり手懐けられた男もおるしね」
なんて、楽しく過ごす3時間弱がほんのり幸せ。


転機というのは思いがけず、やってくる。
土曜日はバイト日和とでも言ったらいいのか、とにかく普段より稼げる素晴らしい日で、朝コンビニで早朝手当つきの数時間を過ごした後、午後はファミレスで笑顔を振りまいていた。
「いらっしゃいませ、お客様何名様ですか?」
「あれ、優ちゃん?」
紋切り型のセリフに続いたのは人数ではなく、微妙にイントネーションの異なる聞き慣れた声で。
「先生…」
隣には彼の美しい容姿に負けない美女が、さりげなく腕を組んで立っていた。
それはいつも先生の後ろに見えていた現実。
敢えて目をそらし、憧れってオブラートでくるむと気づかないふりをした真実。
「知り合い?」
「カテキョしとんの。生徒さんよ」
優しく微笑みながら短い遣り取りで説明できる私という存在が鋭い痛みを胸に残したけれど、まだ知らないフリで誤魔化せる。傷はそれほど深くはない。
「いつもお世話になってます。おタバコお吸いになられますか?」
「ん。喫煙席でお願い」
「はい。ご案内致します」
頬が痛くなる作り笑いで窓際に2人を案内しながら、知らなかった先生をたくさん知ったんだとぼんやり思う。
彼女がいて、タバコを吸って、私や弟妹に見せていた顔は恋愛用とは全然違って、家の中から一歩出たら先生との関係はとても希薄で。
なにより、彼にとって私は女のカテゴリーに入っていないことを。


本気の恋をしたら、不眠や食欲不振と付き合わなければならないんだと知る。
苦しくても胸を占める先生の面影を追い出せないから、夜は眠れず。
食事をしようとすると彼女さんの顔とそれを甘く見守る笑顔を思い出すから、食欲は消えてなくなる。
子どもでも大人でも、初めての恋でも100回目の恋でも、症状はきっと同じなんだろう。
少し前まで楽しみで仕方なかった火曜と木曜が、苦痛で憂鬱で気持ちが沈んで仕方なかった。
「もうすぐ期末やね」
「そうですね」
上手にサンマをほぐしながら何気なく零された一言に、曖昧な相づちを打つほど集中力に欠けていた。
期末で頑張るにはこのごちゃごちゃした気持ちを片づけてしまわなければとか。
例えばすっぱり忘れるとか、告って玉砕とか……家庭教師を断る、とか打開策を検討していて。
「の割に、心ここにあらず、やんな?」
「…そんなこと、ないですよ」
ありまくりだけど、認められない。
究極の選択で迷う私は、傍目にやる気がないとか弛んでると見えることなど先刻承知なのだ。
良くないとわかってる。わかってるから悩んでるじゃないの。いっそあみだで選択してみようか?
愚にもつかないことをつらつら考えていたから返事は当然おざなりで、
「なぁ」
「はい?」
「好きですって言うてみ?」
手痛い不意打ちを、食らってしまった。


固まったままいつまで経っても返事をしない私を、食事を終え流しに食器を運んでしまった先生が促す。
「このままおっても答え出んでしょ?ちょい気分転換をしよ」
イスの背に掛けたままだったコートを着せて2階に外出を告げた彼は、大きなバイクの後ろに私を乗っけると、
「しっかり捕まっとってな?」
悪戯っぽく笑って冷たい風を切り、近くの公園まで移動する。
それは歩いたって5分ほどの目と鼻の先で、なのにわざわざ10分も遠回りをしてやっとたどり着いて。
私の腕は先生のお腹と同化するんじゃないかと思うほど強く回されていた。
仄かに香るコロンとタバコの匂いが心臓を押し上げて苦しくして、やっぱり好きだと涙が溢れそうだから。
言って、みようか。
気持ちに蓋をして忘れることは、できない。
告白もせず2度と会えなくなったら、後悔に押しつぶされる。
良くも悪くもケリをつけるには、走り出した恋心を納得させるには。
「…好きです…」
よく耳をすましていなければ、聞こえはしなかったろう。
2人ともヘルメットを外したところで、私はバイクから降りてさえいなかったから。
じっと黒光りする金属を眺めていた視界が恐怖で歪む。
どくどく聞こえる心音が煩い。妙に静まりかえった周囲が、沈黙を永遠に変えていくようで逃げ出したくて仕方なかった。
断ったっていい、気を遣う必要なんてないから早く答えを聞かせて。1秒でも早く、この状態から解放して。
「良くできました」
だけど返事は予想に反して、甘い声と意地悪く歪んだ唇。
そして、羽のような、キス。
「いっくら凪子に頼まれてもな、飯と引き替えなんて悪条件じゃカテキョは引き受けんよ」
「じゃあ、なんで…」
「そりゃ、恋してしまったからねぇ」
ふふっと笑うどこまでが本気なのか、初心者の私にはちっともわからないけど、でも。
都合良く解釈してもいいんじゃないかな。
抱きしめる腕は痛いほど強く、触れる唇は驚くほど熱いから。




無理してんのが見え見えで、俺やってもう限界やったから。
「なあ」
「はい?」
「好きですって言うてみ?」
驚いて目を見開いたのも、あっという間に赤く染まった頬も、これまでのどの瞬間より可愛くて、 素知らぬふりで飯を食い続けんのはひどく骨が折れた。


「じゃ、お願いね?」
泣けるほど鈍い凪子は、人の気なんぞ露程も知らず残酷なことを言いよる。
頑張り屋で素敵なクラスメイトが困ってるからカテキョをしてやってくれないかと。報酬代わりの晩飯付きで、 真面目に本気で付き合うなら口説くのもオッケーって。
諦めはしたけど好きだった女にこんなお願いをされる俺はなんて不幸なんや。そんで冷たく断ることもできん 未練たらしい恋心はみっともなくもいじらしい。
本音言うたら今すぐイヤやて駄々こねたいけど、かっこつけの俺はそうもできんから偉そうに言うたった。
「ええけど、まずかったらすぐやめんで?」


飾り気のない子ぉやな、が第一印象。
スカート丈が短いとか、襟元がルーズなんはそこいらの子らと変わらんけど化粧はしとらんし、髪型も 邪魔にならんようくくっとるだけ、元はそんな悪ないのにもったいない、の答えは自宅を訪れてすぐわかった。
「優姉、洗濯物入れといた」
「お米炊いてあるよ〜」
「ありがと、すぐご飯にするからね。蜜〜手伝って!」
「は〜い」
共働きの両親不在の家を、彼女は弟妹と一緒に切り回して、僅かに残った時間をバイトと勉強に充てている。
身なりに構う時間も金もそうなく、けど最大限の努力はしてると手入れされた爪と綺麗な素肌が証明していた。
「すみません、たいしたもの作れなくて」
恥ずかしそうにテーブルに並べてくれたんは、餃子と炒飯、サラダにスープ。
彼女似の素直で可愛い弟妹に囲まれて口にした料理は、家庭料理としちゃ充分すぎる及第点なのに。
「…しょっぱいよ、スープ」
「こうも大きさの違う餃子ってどうなんだ?」
「焦げてる…炒飯」
そうかぁ?うまいやないの。


「できた」
10分も悩んだ数式が解けた瞬間、顔一杯に広がる微笑みは子供の無邪気さで、故に俺では届かない。
「がんばったな」
だが、欲に負けて手を伸ばし躊躇って、結局触れることが叶わず指は細い髪を絡めた。
「え、あ、せんせ…」
結ばれた先を蛍光灯にかざすようサラリ落として、放たれた光に焼かれて目を細める。
「キレイやねぇ、キラキラしとる」
視線が交わるたび、体が近づくたび、ピクリと反応する彼女を抱きしめたいと思うようになったんは、 いつからやったやろ。
1人の時、思い出す姿が凪子でない女の子になったんは?
「お、お茶!煎れてきます!!」
うつむいてなすがままだった子ぉが、勢いよく立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
「逃げられたか」
残念と笑みを刷いて、呟く声が彼女に届いたらええのに。
滑るように消えた髪と姿。掌に残る微かな香りが嬉しくて、握りしめる。
何も知らない君を教えんのは、俺の仕事。
けどな、勉強の押し売りはできんから、上手に追いつめてあげるよ。
堕ちておいで、腕ん中へ。真実を認める為に。


予想以上の反応に内心ほくそ笑む。
わざわざ女連れでバイト先に顔出したかいがあるっちゅうもんや。ただの教え子や言うたことも功を奏した みたいで、随分へこんどるし。
あと一押し、なんやけど、危ないなこれは。玉砕か諦めかグラグラ不安定な足場で迷うとる。
早まる前に正しい道を示してやんのが、残る俺の仕事か。
「好きですって言うてみ?」
恥ずかしいと思う暇もないほどキス、したるから。
ぎゅっと抱いて、不安を全部消したげるよ。
なのに、躊躇いは踏み出す力を奪ってしまったようで、考え込んだまま彼女はピクとも動かない。
じりじりする膠着状態をなんでもないことのようにやり過ごして、俺は欲しい一言を引き出す為の最後の賭に出た。
否が応でも体が密着するバイクの後ろに彼女を乗せて走り出す。
気づいて、俺やって好きなんや。
一目で落ちた恋ではないけれど、少しずつ確実に染みこんだ想いが全身を巡り今やすっかり君の虜。
心臓、早いやろ?体、熱なってるやろ?
おんなし。回した腕の力で必死に気持ち伝えようとする彼女と俺は寸分の狂い無く、おんなし。
やから、な?どんなちっさな声やって聞き逃したりするはず、ないやろ?
「…好きです…」
可愛い告白のお礼は、触れるだけのキス。
さあ、短い猶予の始まりや。しっかり覚悟しぃ?2度目にその唇に触れる時、俺はもう手加減せんよ。
潤んだ瞳で見上げた顔に、まだ信じられないと書いてあるからなんて事無い真実をプレゼント。
「そりゃ、恋してしまったからねぇ」
まだ信じられんの?そうか、そんならじっくり教えたげんとね。
腐っても、教師やし。


期末試験、希望大学にA判定がもらえる点数を取れた私は喜び勇んでそれを先生に報告して、思いがけないご褒美を貰う こととなる。
「そしたら、息抜きも兼ねて海にドライブしよ」
飛び上がって喜びたかったけど、同時に真っ青にもなった。だって、それってやっぱりデート、だよね?あんまり実感は ないけど、その付き合ってるんだし、えっと…なに、着てったらいいの?どんな話するの?待ち合わせとかは?え?え?

泣きついた凪子ちゃんは、まかせてって言ってお買い物に付き合ってくれた。
襟と袖口に白いファーの着いたコートと膝丈のAラインスカート、ブーツに緩く巻かれた髪はこうしてねって、彼女が アドバイスをくれたそのままなんだけど、どうだろう?
お兄さん、つまり凪子ちゃんのカレシの持ち物だそうな車でお迎えに来てくれた先生は、車から降りると固まってしまった から、私だって動揺してしまう。
どこか、変?スカート短いの似合ってないとか、あ、ジーンズの方がいいのかな。ちょっとキュート路線すぎるんじゃない かとは自分でも思ったんだけど、並んで歩くのもイヤなほどとか…。
「あの、着替えて来ますっ」
「待って、待って!そのまんまでええて、つーか、それでおって下さい、お願い!」
羞恥で真っ赤になった顔を見られまいと慌てて踵を返した腕を、先生の掌が強い力で止める。
言われた内容をにわかに信じられず振り向けないままを引き寄せられ、背後から抱きしめられて顔は更に熱くなって。
「ごめん、あんまり可愛いんでなんも言えんようになってしまった。似合うとるよ、すごく」
う、嬉しいんだけど…その…。
「先生…恥ずかしい、です」
ここは、家の真ん前で、土曜の早朝だから通行人もいないけれど、いつご近所の人に出会うとも知れない道路の上なわけで、 甘い言葉で手放しに褒められることも抱きしめられていることも、なんか全部、どうしていいかわからないほど恥ずかしい のだ。
小さく呟いた私の声に、ああそうなって微かな笑いを漏らした先生は、離れ際耳に派手な音のするキスを残して、去っていく。
「理性飛んで、状況も読めんようになってしまった。大失態やね」
助手席のドアを開けてなれた仕草で私を座らせた彼は、シートベルトを締めてくれながら不意を突いて口づけを。
「んっ」
驚く暇を与えずにどんどん深くなるそれは、いつしか湿った水音を伴ってどこまでも私を混乱させた。
夢みたいに告白して、羽みたいなキスを貰って以来2度目の触れ合いは、想像を遙かに超える生々しさで襲ってくる。
キスって、マンガで読むような映画で見るような綺麗なものじゃないんだ。舌と舌を絡めて歯医者さん以外には触られた ことのない口の中を掻き回される。
好きでもない人としたら絶対吐き気を催しそうなその行為が、カレシとだった気持ちいいとさえ思える不思議。
「2人の時はセンセって呼んだらあかんて、言うたよね」
上がった息のまま見上げた顔は、唇を妖しく光らせて微笑んだ。
「お仕置きにキスなんてべたなもん笑うって、思うてたんやけどな…ええかも」
また、知らない先生だ。
優しくて面白いだけじゃない。強引で傲慢で、少しエッチな顔した、人。
「き、聞いてないです、そんなの…」
名前で呼んでとは言われたけど、お仕置きがあるなんて知らなかった。それも、こんなの…なんて。
抗議を込めて押し返した胸は、びくともしない。それどころか、じりっと更に近づいて、唇を触れ合わせたまま掠れた 囁きに胸がぎゅっといたくなる。
「うん、今決めたから。優やって…嫌いやないやろ?これ…」
…嫌いじゃ、ないです…。

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