9.
 
 
        家主に数歩遅れて入ってきた雅樹君を、気配だけ捕らえながらあたしは黙々とお茶の用意をす
 
        る。
 
        覚悟はしても顔を合わせにくいんだからしょうがないじゃない。普通のケンカとは訳が違うも
 
        の。
 
        カウンター越しに視線を感じるけどあえて気にしないようにして、選び出したティーポットに
 
        茶葉を数杯落とし入れた。
 
        男の人の一人暮らしにしては、食器や鍋、調味料なんかが充実してるのがこのキッチンの特徴。
 
        引っ越しの時に北条さんのお母さんが揃えたのかな、なんて思ったこともあったけどビミョウ
 
        に減ってるミリンやナツメグなんてマニアックなスパイスを彼が使うはずないんだよね。
 
        きっとたくさんいたカノジョの置きみやげなんだ。
 
        終わってるってわかってても気になるのが人情よね、いつか平気になるといいんだけど…。
 
        現実から目を背けたはずなのに、ドツボに嵌ったあたしは小花の散ったカップに紅茶を注いだ。
 
        これもきっと前カノが選んだんだ…もう、この発想から抜けようよぉ。
 
        沈む気持ちを小さなため息で切り替えて、リビングに踏み出したあたしは異様な雰囲気に回れ
 
        右をしそうになる。
 
        黙り込んで睨み合った男二人は突っ立ったまま微動だにせず、物音一つで飛びかかりそうな空
 
        気を纏ってた。
 
        こちらに見えている雅樹君の頬は僅かに腫れて、唇は切ったのか赤黒い傷跡が生々しい。
 
        昨夜、北条さんに殴られた場所だよね…。
 
        ちょっとだけ罪悪感に胸が疼いた。よくよく考えたら隙だらけのあたしにも落ち度があったし、
 
        いきなり襲われたのはショックだったけど、無事だったんだから雅樹君に怪我させるのは行き
 
        過ぎだったかな。
 
        大事な家族に違いはないんだもんね…。
 
        「あの、傷、痛くない?」
 
        無意識に出た声が、二人の均衡を破ったと気付いたのはトレイから滑り落ちたカップが大きな
 
        音を立てた時。
 
        性急に腕を引かれ、雅樹君の胸に抱き込まれたあたしが恐怖に叫び声を上げるより早く、踏み
 
        込んだ北条さんにすくい上げられる。
 
        「…殺すぞ」
 
        頭上から発せられた威嚇は、その後の雅樹君の行動にどう影響を与えたのかはわからない。
 
        北条さんの胸に顔を埋めたあたしは成り行きを見ることができなかったから。
 
        「余計な刺激与えるんやない。ええな?」
 
        微かに怒りを内包した声に、己の不用意な行いを痛く反省したあたしは頷くと、少しだけ雅樹
 
        君を振り返った。
 
        レンズの奧から覗く暗い瞳は、昨夜と変わらず剣呑な光りをたたえている。
 
        両脇で拳を握りしめ、小刻みに震える体は激しい怒りを表していて、あたしは一層強く北条さ
 
        んにしがみついた。
 
        「そいつから離れろ!」
 
        激高した雅樹君が吠えると中学生とは思えない迫力があって、体がすくみ上がる。
 
        あたし彼と昨日までどう接してたんだっけ?
 
        うるさい干渉して妙に大人ぶる従兄弟を、悩みの種にしたり微笑ましく思ったり、何気なく暮
 
        らしてた。子供の頃から一緒にいればケンカだってあったけど、逃げ出したいほど怖かったこ
 
        となかったのに。
 
        近寄ればこちらの意志をねじ伏せて強引に事を運ばれそうになる、話そうにもかける言葉も思
 
        いつけない、一番近くにいる家族だったのに、今の雅樹君は道で会う他人より遠い存在に感じ
 
        られた。
 
        「…お前、凪子を自分の持ちもんとでも思うとるんか?」
 
        呆れたように大きく息をつきながら、北条さんはあたしを抱えるようにソファーに腰を下ろし
 
        た。
 
        なだめる大きな手に守られてる安心感は、雅樹君の攻撃に抵抗する勇気をくれるけど、きつい
 
        まなざしはやっぱりちょっと怖かった。
 
        「今も昔も凪子は俺のものだ」
 
        火を噴きそうな勢いって言うけど、彼の状態はまさしくそれ。
 
        今にも飛びかかりそうに全身に力を込めて、北条さんを睨みつけながらあたしを奪還する機会
 
        を窺っている。
 
        「母親に捨てられたこいつがどんなだったかあんた知ってるのかよ。無理して笑って、俺たち
 
         に嫌われないように一生懸命いい子にして。あの時決めたんだよ、凪子は俺が守る、絶対泣
 
         かせないってな!」
 
        「昨夜凪子を裏切ったんは、お前と違うんか?泣かせたのはお前やなかったか?」
 
        「先に裏切ったのは凪子だ!大事にしてたのに、あんたみたいな奴とこそこそ付き合って!」
 
        静かな北条さんの言葉にも雅樹君は全く聞く耳を持たず、だだをこねる彼はまるでお菓子をね
 
        だる子供みたいだ。
 
        あの家に暮らすようになって10年近く、たくさん支えてもらった、家族にしてもらった。
 
        雅樹君がそんな風にあたしを思ってくれてたなんて全然気づかなくて、きっといっぱい傷つけ
 
        たのかも知れない。
 
        でも、でもね…
 
        「人の気持ちは思い通りにならないよ…」
 
        こぼした呟きは二人の耳に届くかさえ不安な微かな音だけど、あたしは言わずにおれなかった。
 
        ゆっくり上げた視線の先に、歪んだ顔で唇を噛む雅樹君を据えて、大切な弟にだからわかって
 
        欲しい。
 
        「あたしは北条さんが好き。雅樹君を裏切ったんじゃない、恋した相手が違うの。どんなに思
 
         っても自分の気持ちだけじゃどうにもできないんだよ」
 
        「…そいつがお前を好きだって、ずっと変わらず好きだって言い切れるのか?」
 
        「永遠なんてどこにもない、変わらないものなんてあり得ない。今の積み重ねが未来になるだ
 
         もの。小さな好きをたくさん重ねて、今日も好き、明日はもっと好き、そんな恋を北条さん
 
         としたい」
 
        少なくとも、あたしはそう思ってる。
 
        心なんていつ変わるかわからないけど、それを恐れてちゃなにもできないし、あたしを好きだ
 
        って北条さんが言ってくれる今を、永遠にする努力はしたい。
 
        雅樹君の強いまなざしに負けないよう、精一杯の思いを込めて見つめ返すあたしの肩を北条さ
 
        んが強く抱いた。
 
        「俺は昔の凪子を慰めることはできんけど、これから凪子を泣かさんようにすることはできる。
         
         これじゃ納得できんか?」
 
        嬉しい北条さんの援護を得て、互いの視線をからめた時、雅樹君が声を絞りだした。
 
        「ダメだ!ダメだダメだダメだ!!お前に凪子をやれるかよ!」
 
        一瞬の隙をついて黒い塊がこちらに飛びかかってくる。
 
        「えっ…!」
 
        伸びた腕が北条さんの胸元を掴んだと同時に、激しい殴打音がした。
 
        押しのけられたあたしは至近距離の暴力沙汰に動くこともできず硬直し、睨み合う二人をじっ
 
        と見つめるしかない。
 
        当然反撃するんだろうと身構えたのに、北条さんは静かに雅樹君をに視線を据えたまま微動だ
 
        にしなかった。
 
 
 
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