10.
 
 
        息詰まるような沈黙を破ったのは来客を告げるチャイムで、動けないあたしの手を引いて立ち
 
        上がった北条さんは、睨みつける雅樹君の視線を意に介さず玄関へ続く廊下へと歩みを進めた。
 
        「…あの、北条さん…?」
 
        早朝の来訪者が気になって問いかけるのに、切れた唇に人の悪い笑みを掃いた彼は何も答えな
 
        い。
 
        雅樹君の時と同様、企みがあるのね。何でもいいけど、これ以上こじれるのは勘弁して欲しい
 
        なぁ…。
 
        不安いっぱいで辿り着いたドアの向こうにいたのは、やっかい事を想像させるには充分すぎる
 
        人達で、北条さんはついぞ見たこともない真面目な顔して頭を深く下げていた。
 
        固まっちゃってるあたしの横でね。
 
        「すいませんでした、朝早くからお呼び立てして。どうぞお入り下さい」
 
        困惑顔の叔父さんと叔母さんは、チラリとあたしを見てから狭い玄関に靴を脱ぎ始める。
 
        二人が歩けるように壁に身を寄せながら果てしなく重くなる気持ちを持て余して、あたしは北
 
        条さんの小指をぎゅっと掴んだ。
 
        一体どうするつもりなの?雅樹君との話も終わってないのに、叔母さん達を呼んじゃうなんて。
 
        まさか、あるがままを話したりしないよね…?そんなことしたら、こじれるどころか家に帰れ
 
        なくなっちゃうよ。
 
        「心配せんでええ、俺に任してなんも言わんとき」
 
        強くあたしの手を握り返した北条さんは、先に立って歩く二人に付き従いながら耳元にそっと
 
        囁いた。
 
        …不安、とてつもなく嫌な予感がするのは、何故?!
 
        でも、賽は投げられてしまったのよね。どんな計画があるのか知らないけど、手の内が見えな
 
        い以上黙ってるしかないじゃない。
 
        役者の揃ってしまったリビングの端に立って、これから起こることをあたしは息を飲んで見守
 
        った。
 
        「父さん、母さん…」
 
        思いがけない人達の出現に、狼狽えた雅樹君の表情が凍り付き、息子の有様を見た叔母さんも
 
        また顔を曇らせた。
 
        「あなた、それどうしたの?」
 
        触れられるのも痛むのか、伸ばされた叔母さんの手を乱暴に払った彼は想定外の事態を企てた
 
        張本人を睨みつけると、唸るように悪態をつく。
 
        特別よい子ではないけれど、普段なら絶対使わない乱暴な言葉に両親は驚きながらも言われた
 
        北条さんに気遣わしげな視線を投げた。
 
        「おまえ、人様に向かってなんて口の利き方をするんだ」
 
        「父さんは凪子がこいつに騙されてるって知ってるのかよ!俺を殴って自分の家に連れ込んだ
 
         んだぞ」
          
        見かねた叔父さんの声に振り返ることもなく、雅樹君は北条さんを指さすと自分に都合の悪い
 
        話は忘れて彼一人を悪者にしようとした。
      
        そのあまりの稚拙さにたまりかねて、抗議の声をあげようとしたのに口元に伸びてきた大きな
 
        手がそれを阻止する。
 
        見やれば口を出すなと諫める北条さんの目があった。
 
        「凪子が昨夜泊まることは、彼から電話で聞いている。殴ったのはお互い様じゃないのか?」
 
        赤みを帯びた頬と、血のこびりついた口元はお揃いのように、睨み合う男二人に共通している。
 
        いつ気づいたのか、叔父さんは動かぬ証拠を突きつけて息子を黙らせた後、くるりとあたしを
 
        振り返った。
 
        「お前が昨夜帰ってこなかったのは、雅樹とケンカをしたせいだと聞いたがどうなんだ」
 
        うっ…どこまで言ったらいいんだろう。理由まで答えなきゃいけなくなるのはイヤだけど、た
 
        だそうだと答えるのも説得力に欠けるような…いいや、とにかく頷いちゃおう。
 
        沈黙は金とばかりに無言で返したあたしに、叔父さんは理由はときいてきた。
 
        やっぱりきちゃったかぁ…そうだよね、家出するほどのケンカって尋常じゃないよね。
 
        「雅樹君、怒ったから…北条さんと付き合うなって。それで、それで…」
 
        どうしよう、これ以上はあのことに触れなきゃいけなくなっちゃう。
 
        「監禁しようとしたらしいです。家から出なければ僕に会うこともできないと思ったんでしょ
 
         う」
 
        言葉を引き取って嘘八百を並べた北条さんが、そうとは気取られないよう深刻な顔して叔父さ
 
        んを見ていた。
 
        襲われるのもまずいけど、監禁もまずいじゃない!その嘘どうする気?
 
        「…何を考えてるんだお前は。凪子は犬や猫じゃないんだぞ、意志を持った人間なんだ。家族
 
         だからと言ってやっていいことと悪いことの区別もつかんのか」
 
        「違う!俺は…」
 
        静かに怒りを露わにした叔父さんに、抗議しようとした雅樹君はその後が続かない。
 
        真実を話せば自分のしたことがばれるし、かといって上手い言い訳も思いつけないのだろう。
 
        悔しそうに唇を噛んだ彼は、考えあぐねて黙り込むしかなかった。
 
        「もうこんな真似をしないと誓え。このままじゃ不安で凪子も家に帰れんだろうが」
 
        「…凪子がこいつと別れるなら誓うよ」
 
        「まだそんなことを言うのか!」
 
        雅樹君はここで自分を曲げることができなくて、自爆してしまう。
 
        素直に頷けばあたしは家に帰るのに、北条さんとの関係を絶つよう言われて返事はできない。
 
        狡猾には立ち回れない素直さが仇になって、大人の策略にはまり込んだと気づけないまま彼は
 
        北条さんの望み通りの言葉を発してしまった。
 
        あたしだって、隣から聞こえた小さな声を耳にしていなければわからなかったもの。
 
        「かかった…」
 
        叔父さんの怒声と重なったその呟きは、これまでの全てが彼の描いたシナリオで進んでいると
 
        教えてくれた。
 
        自分の要求を飲ませようと父親を睨みつける雅樹君も、息子の言動に拳を震わせる叔父さんも、
 
        見守るしかできない叔母さんも、北条さんの歪められた唇を見ていない。
 
        雅樹君が彼の狡さを半分でも身につけていたら、いい勝負になったかも知れなかったのに、決
 
        着はついてしまった。
 
        強情に口を引き結ぶ息子に掴みかかろうとした叔父さんを、北条さんが手で制し二人の間に割
 
        ってはいる。
 
        「息子さんはお姉さんが心配なんですよ」
 
        真実を知ってるあたしは、ポカンと口を開けて彼を見つめてしまった。
 
        昨日も今朝も雅樹君をぼろくそ言ってたのに、どこからそんな言葉が出てくるの…。
 
        「でも、僕は真剣にお嬢さんとお付き合いしてます。大学を出たら、いや今すぐにだって彼女
 
         と結婚したいくらいです。どうか彼女を僕から引き離したりしないで下さい」
 
        全身から湯気が上がってるんじゃないかな。
 
        嘘だとわかってても保護者の前でそんなこと言われたら、ドラマとかで見る『お嬢さんを僕に
 
        下さい』ってアレみたい。北条さん役者になれそう。
 
        「ふざけんなっ!誰がお前なんかに凪子を…」
 
        「雅樹!」
 
        頭を下げる北条さんに飛びかかろうとした雅樹君は、叔父さんの腕に簡単に捕獲されじたばた
 
        暴れることもできなくなった。
 
        そうは言っても中学生。体の大きな父親に対抗するには絶対的に腕力が足りないのよ、ちょっ
 
        と憐れ。
 
        「…この様子じゃ、認めてもらうのは難しいかな」
 
        寂しそうな表情を作って雅樹君を見つめる北条さんを、彼は火の出そうな視線で睨みつけてい
 
        る。
 
        わざとらしい標準語も、言葉の裏にあるあざけりも、さぞ雅樹君の神経を逆撫でしてるんだろ
 
        うなぁ。
 
        でも、怒れば怒るほど北条さんの策に嵌ってくって気づいた方が身のためなのに。相手の方が
 
        上手なのよ。
 
        「僕はなんと言われても構いませんが、彼女がひどく傷ついているのはもう見たくない。昨日
 
         から家に帰ることをとても恐れているんです」
 
        そこで北条さんは視線をあたしに振ってよこした。
 
        自然、8つの瞳に注目されることになって、なんと返したらいいかわからないまま困惑顔をあ
 
        たしは伏せる。
 
        真実なんだけど、ビミョウに嘘入ってるし、下手に答えるとまずいこと言っちゃいそうで返事
 
        ができない。
 
        「凪子…」
 
        どんな誤解を生んだのか、叔母さんが腕の中にあたしをきつく抱き込んだ。
 
        温もりに涙がジワリと湧いてきて、嬉しいやら申し訳ないやら…恐怖の記憶を思い出した心と
 
        騙してるような罪悪感の入り交じった涙が一粒頬を伝い落ちる。
 
        「よろしければ彼女が落ち着くまで、家で預からせてはもらえないでしょうか?未成年が男の
 
         部屋で暮らすのは抵抗があるでしょうが、この状態の彼女を帰すのは心配です。」
 
        絶妙のタイミングで切り出した北条さんに、叔父さんと叔母さんは一瞬困惑顔を作ったけれど、
 
        涙で濡れたあたしの目を見ると頷きあった。
 
        「北条さんは責任の持てる大人だと信じて、凪子を預けます。雅樹がこれでは私たちの目が行
 
         き届かない事も多いでしょうから」
 
        「父さん!何考えてんだよ、凪子がどうなってもいいのかよ!」
 
        にわかに不利と見て暴れ始めた息子の首根っこを押さえつけると叔父さんは眉根を寄せる。
 
        「お前がそんな風だから凪子を預けるんだ。北条さんといるよりお前といる方がよっぽど危な
 
         い気がするよ」
 
        ため息混じりの台詞に身に覚えのある雅樹君が視線を逸らし、あたしも胸の内で大きく頷いた。
 
        そもそも自分が原因だって思い出してもらえたかな。
 
        「ただし、凪子は私たちの大事な娘だと覚えておいて下さい。何かあったらただでは済まない
 
         と」
 
        鋭い視線で釘を刺す叔父さんに、北条さんは神妙な面持ちで大きく首を縦に振る。
 
        「肝に命じます」
 
        …狐につままれたみたいじゃない?
 
        話って、こんなに簡単についちゃっていいもんなのかしら…。
 
 
 
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