4.
 
 
        静かな車中は、さっきまでの事が嘘みたいに安心と穏やかさが満ちていた。
 
        何か言ったら泣いてしまいそうで、あたしは口を開くことができない。
   
        叔母さん達、変に思わなかったよね?黙って飛び出したら事情を聞き出す為に追い掛けられそ
 
        うな気がして、言い訳にもならないような言葉を叫んだのは覚えてるんだけど、内容を思い出
 
        すことができないの。
 
        だって、弟が安全なはずの家の中でいきなり襲いかかってきたんだよ?北条さんの言う通りに
 
        雅樹君がもしあたしを好きなら、先に言葉をくれたっていいじゃない。黙ってカレシを作った
 
        のが男の人とエッチしたいだけなんて言い方して、無理矢理やろうとするなんておかしい。
 
        これまでも口うるさくあたしの恋愛に干渉してきたけど、普段は優しい弟だった。
 
        でも、もう同じ家にいるのが怖い。
 
        「歩けるか、凪子」
 
        遠慮がちにかけられた声で、車が止まっていたことを知る。
 
        コンクリートの壁、並んだ車、北条さんのアパートの地下駐車場だ。
 
        「無理なら抱いていこか?」
 
        運転席から覗き込むようにこちらを見る北条さんは、壊れ物でも扱うようにそっとあたしの頬
 
        に触れた。
 
        「あ…平気」
 
        ビクリと跳ね上がる肩は条件反射で、決して彼に触られるのがイヤって事じゃない。
 
        だけど、さっき明確な意志を持って自由を奪った手があったのは事実、力では決して敵わない
 
        んだと、恐怖を刻まれた体は過敏なまでに反応する。
 
        「ごめん、なさい」
 
        流れた涙はそんな自分に苛立って、北条さんに誤解されるのが恐かったからだろう。
 
        彼は安全だと、ううん、彼だけがあたしに安全をくれるとわかってるはずなのに、どうしてこ
 
        んな風になっちゃうの?
 
        俯いて、目を合わすこともできないでいると伸ばされた指が一房、髪をすくった。
 
        「謝ること、ない。俺も男やからな、凪子ん中では区別がつかんくなっとんのやろ」
 
        「でも、違うの、に」
 
        力なく振った頭をスルリと北条さんの手が滑る。
 
        「わかっとる、誤解なんかせんから安心し。俺を見ぃ」
 
        大きな掌が両頬を包んで、ゆっくり合わされた瞳が柔らかな光をたたえて微笑んだ。
 
        いつもの陽気でふざけた彼とは違う、真摯で熱い眼差しが竦んでいた心にそっと落ちて安堵を
 
        おいていく。
 
        「凪子を傷つけたりせんよ。お前がいやや言うたら、力で押さえつけたりせん。殴って蹴って
 
         もええ、どんな目に合わされても、俺は凪子を傷つけんから」
 
        この手も声も、絶対に嘘はつかないんだと呼吸をするより簡単に全身が信じた。
 
        雅樹君と同じように、簡単にあたしを屈服させられる力は、守るためにしか使われない、北条
 
        さんだけはなにがあっても味方だと。
 
        「ね、キスして?」
 
        温かな手に頬ずりをして、目を閉じたまま北条さんにお願いする。
 
        どこにも残る雅樹君の跡だけど、ここが一番鮮明だから、早く消してしまいたいから。
 
        羽のように触れた唇が怯えないあたしを確かめて、少し大胆になる。唇を割って、歯列を撫で
 
        絡む舌で互いを翻弄して。
 
        離れたくないとおどおど首に腕を回すと、倍の力で抱きしめられて。
 
        名残を惜しんで唇が遠ざかった後、あたしを見た北条さんの笑顔が少し曇る。
 
        目元を拭うように動いた指がすくう透明な雫は、無意識にあふれ出た涙だった。
 
        「ごめんね…もう泣かないから」
 
        頭の中がごちゃごちゃで涙の理由がわからない。
 
        雅樹君の行動がショックだったとか、叔母さん達のところに帰れないとか、果ては子供の頃置
 
        き去りにされた事とか、グルグル回る思考の渦が負の感情ばかりを拾って胸を苦しくさせてい
 
        た。
 
        「あほ。俺に我慢してどないすんねん」
 
        きつく抱きしめられた腕は、北条さんのいっぱいの優しさがある。
 
        悲しみも苦しみも消えてなくなる訳じゃないけど、暖かい胸の中はほんの少しあたしに顔を上
 
        げる元気をくれた。
 
        「…恥ずかしいから部屋で泣く」
 
        いくら暗くても駐車場は公共の場所だもん、いつ人が来るかわからない。車の中で抱き合って
 
        る図って、見ようによったら怪しいよね。
 
        笑顔、とまではいかなかったけど泣き顔よりはましな赤い顔で北条さんを見たら、口元を弛め
 
        た彼は周囲を見回す素振りをした。
 
        「せやな、こんな所見られたら淫行条例ひっかかってまう」
 
        陽気な彼らしいおどけた仕草は普段と一緒。
 
        嫌なことを打ち消そうと頑張るあたしに合わせてくれてるのがわかるから、気合いを入れてド
 
        アレバーを引いた。昼間の熱気を孕んでまとわりつく外気は、木立の中温度さえ感じることの
 
        できなかった公園とは違う。
 
        執拗に追う足音も、帰りたい家もここには無い。
 
        全然違う場所は、北条さんって言う絶対の味方だけの存在するあたしの待避場所。
 
        明日になったら考えるから、家に帰って雅樹君とも上手くやれる方法を思いついてみせるから、
 
        今夜は安全なここで護られて過ごそう。
     
        「ん」
 
        一足先に外に立った北条さんが差し伸べる手に縋って、あたしは部屋へと続くエレベータに導
 
        かれた。
 
 
 
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