3.
 
 
        ほら、取り越し苦労だったじゃない。                
 
        家に帰り着いて、叔母さんと帰ってた叔父さんに遅くなったこと謝って普通に食事して、いつ
 
        もと変わらない日常にはちゃんと雅樹君だっていたけど問題なし。
 
        逆に北条さんのことと、もらったおみやげで盛り上がったくらいなんだから。 
 
        カレシができたこと喜んでもらえたし、医学部に通ってるって話したら二人とも「絶対ぼろ出
 
        すんじゃないぞ」って泣けるような忠告もくれたし、大団円よ。
 
        「…終わり!」
 
        報告メールを送った携帯を枕元に放り出すと、あたしはベッドに大の字に寝そべった。
 
        北条さんすごく心配してたからなぁ、メール見て安心してくれるよね。やっぱり雅樹君は従兄
 
        弟で弟なんだよ。
 
        恋愛感情なんて、ないない。
 
        おかしな勘ぐりする北条さんに、妬いてくれてるののかなーなんて嬉しくなちゃった時、乱暴
 
        に扉を叩く音がした。
 
        「凪子、ちょっといいか?」
 
        声と一緒に入ってきたのは雅樹君。
 
        いや、ノックしたらさ返事があるまで待ってようよ。いつも言ってるのにちっとも聞いてくれ
 
        ないんだから。
 
        ずんずん中へ踏み入って、転がるあたしを見下ろすと露骨に顔をしかめた彼は盛大なため息を
 
        ついた。
 
        「気分悪っ!言いたいことあるならはっきり言えばいいのに」
 
        何したって言うのよあたしが。
 
        「お前があんまり俺をなめてるからむかついたんだよ」
 
        ベッドを軋ませて足下に乗っかってきた雅樹君は、眼鏡の下に剣呑な光を宿して這うようにあ
 
        たしに覆い被さってくる。
 
        「そんな事した覚えは無いんだけど…待って、ちょっとどうしてにじり上がってくるのよ」
 
        暴れるには遅すぎたみたいで、のし掛かられた体は藻掻くのが精一杯。僅かしか離れていない
 
        唇と唇なんていつ接触してもおかしく無い位置で不気味な笑いをたたえていた。
 
        「俺の言うことちっとも聞かない凪子が悪いんだ。無断で男つくって、こういう事したかった
 
         んだろ?」
 
        近づいてきた唇に、唯一自由になる首を思いっきり曲げての虚しい抵抗。
 
        逸れて首筋に埋まった顔を考えると、どっちも替わらないくらいイヤなんだけど、それどころ
 
        じゃ無いのよ。
 
        逃げなきゃ、北条さんの言う通りになっちゃった。こんな事ならあのまま素直に彼のアパート
 
        に行っちゃえば良かった…。
 
        無駄な後悔がショート寸前の頭の中をグルグル巡ってる。
 
        「いくらでも相手してやるよ。見るからにいい加減そうなあいつより、絶対俺の方がいいって」
 
        冷たい手がTシャツを押しのけて素肌に触れた。
 
        背筋を這い上がる悪寒に耐えきれずほとばしった悲鳴は、雅樹君の手に簡単に遮られ耳元を漂
 
        っていた唇から吐き出された台詞に、恐怖で体が竦む。
 
        「わめくなよ。父さん達に見つかっていいのかよ」
 
        ダメ、絶対ダメッ!
 
        叔父さん達にこんな場面見せられるはずがない。恩を仇で返すようなことできない。
 
        でも、このまま雅樹君のいいようにされるのもイヤ。
 
        助けて、北条さん…。
 
        動かなくなったあたしに諦めを見たのか、噛みしめた唇に酷薄な笑みを浮かべる雅樹君のそれ
 
        が重なる。きつく閉じた歯列を押し入った舌に撫でられると、嗚咽と一緒に耐えきれない嘔吐
 
        感が押し寄せて、涙が目蓋に弾け散った。
 
        我が物顔で体を蹂躙していく感触に精一杯の抵抗をしながら、答えるはずの無い北条さんを必
 
        死に呼び続けていた時、耳元の携帯が騒々しい着信音を発した。
 
        反射的に壁掛け時計を確認するとちょうど9時を指している。定期コールの時間。
 
        一瞬動きを止めた雅樹君の急所を蹴り上げると、声なく蹲る彼を押しのけ部屋を飛び出した。
 
        咄嗟に掴んだ携帯は右手にしっかり握りしめて。
 
        「叔母さん、ちょっと出てくるね!」
 
        リビングから漏れる光に声だけを投げて返事も聞かずに家を飛び出す。
 
        がたがた震える体を抱きしめ、痛いほど唇を拭って、外されていたジーンズのボタンに気付い
 
        たのは息も切れるほど走った後だった。
 
        見慣れた住宅街の風景が広がる道路の真ん中、鳴りやまない携帯。
 
        唯一すがれる機械の着信ボタンを押すと、怒鳴り声が耳に飛び込んでくる。
 
        『凪子!!どないしたんや、返事せい!』
 
        北条さん、北条さんだぁ…。
 
        フラッシュバックを起こした悪夢のような光景があたしを竦ませて、返事ができない。
 
        堰を切って視界を霞ませる涙も、苦しい呼吸を更に妨げているようだった。
 
        怖かった…怖かったよう…!!
 
        『凪子!なんで泣いとるんや!!』
 
        「…た…けっ!…た…すけっ…て!」
 
        しゃくり上げながら、それでも何とか声を出して、背を撫でる寒風に迫る恐怖に思いを馳せた。
 
        どうしよう、まだ家からそんなに離れてない…。
 
        雅樹君が追いかけてきたら、叔父さん達が捜してたら…!
 
        『落ちつくんや。俺もう家出たさかい、今どこや?』
 
        もつれる足を引きずるように再び走り出したあたしは、命綱の携帯は耳から離さずに滲む視界
 
        で必死に現在地を確認して伝える。
 
        「…で、も、追いかけて…くる…かも」
 
        上がった息と溢れる涙でうまく話すことができなかった。
 
        それでも理解してくれた北条さんは、デート帰りに決まって寄る小さな公園の名前を告げる。
 
        『もうじき、5分もあればそこにつける。携帯このまま切らんから、あっこの木陰にでも隠れ
 
         とき』
 
        頷いたって見えるはずないのに、声を出すこともできなくて首を上下させていたあたしは街灯
 
        に照らされる公園の目指してひたすらに走った。
 
        耳元からは北条さんの優しい励ましが聞こえてくる。
 
        大丈夫、がんばれって。
 
        別れづらくて時間を惜しむ公園は、いつも家からあんなに近かったのに、今日は随分離れて感
 
        じた。
 
        何とか辿り着いて、背後に人影がないことを確認したあたしは肌を擦る小枝も構わずに、大き
 
        な植え込みの中にへたり込む。
 
        頬にも掌にも痺れる痛みが走るのに、その僅かな反応さえ木の葉を揺らし雅樹君に居場所を知
 
        らせるシグナルになりそうで恐い。
 
        深呼吸したいけど、息吹さえも居場所を悟らせるきっかけになりそうで、苦しい息を我慢して
 
        じっと北条さんの声に耳を澄ました。
 
        励ましはいつの間にか現在地の実況中継に代わっている。
 
        『…最後の信号や。ここを越えたら一本道。ラッキー青やで、すぐに凪子の所につく』
 
        「早く…早く来て…怖いよ…!」
 
        潜めた声で何度も何度も懇願を繰り返すあたしを、彼は根気よくなぐさめ続けた。
 
        近くにいるってわかってるのに、雅樹君もすぐそこまで迫っている気がして、どうしても落ち
 
        着くことができない。
 
        生々しい手の感触、肌に残る湿った跡が気持ち悪くて、嫌悪に体が震えている。
 
        「凪子!」
 
        現実になる悪夢。
 
        聞きたくない声が風に運ばれて潜んだ茂みの奧にまで届いてくきた。
 
        雅樹君だ!いやだ、来ないで!!
 
        小さく体を丸めたあたしは、見つかることを恐れて呼吸さえも止めた。
 
        苦しいけど、ここにいるってばれたら連れ戻される!
 
        近づいてくる足音に手足が冷たくなり始めた頃、派手な音をさせて車が急停車する。
 
        「消えろ!!」
 
        低い怒鳴り声と、続く殴打の音。
 
        北条さんが叫んだのはわかったけど、殴られたのがどちらかは定かでない。
 
        もし、雅樹君が殴ったなら、あたしどうすれば…。
 
        「凪子!」
 
        木の葉を揺らす声の主は北条さんだった。あちこちめちゃくちゃに走りながら隠れたあたしを
 
        捜してる。
 
        「ほう…じょ…さん…」
 
        膝が震えて立ち上がれなくて、みっともなく這い出すと、すぐさま見つけた北条さんがあたし
 
        の体をすくい上げた。
 
        「凪子…もう平気や。どこも痛たないか?」
 
        きつく抱きしめられながら、あやすように囁かれて、収まっていた涙が再び勢いを増す。
 
        「こ…わい…、帰り…たく…な、い」
 
        「ん、俺んち行こな」
 
        優しく髪を撫でられて横抱きに抱え直されたあたしは、大きな子供みたいに車まで運ばれてい
 
        く。その安心感が嬉しくて、腕を巻き付けた北条さんの首に頬を寄せて。
 
        「どこ、行く気だよ」
 
        不意に響いた雅樹君の声に、ビクリと体が凍り付いた。
 
        「じゃかましい、ガキが!」
 
        吐き捨てた北条さんは、仁王立ちする雅樹君の腹部にケリを入れるとむせ返っている彼を無視
 
        して大きく開けた助手席にあたしを降ろす。
 
        離れていく温もりに縋るような目を上げると、薄明かりに柔らかな微笑みが浮かび上がった。
 
        「ドア閉めたらロックするんや。すぐ出るからな」
 
        頷くあたしを確認してドアを閉めた北条さんは、まだ肩で息をする雅樹君に何事かを言うと運
 
        転席に滑り込んでくる。エンジンのかかったままの車は、僅かな操作も必要とせずなめらかに
 
        公園を後にした。
 
        目の前で激しく蹴り上げられた雅樹君をあたしは見ない。窓越しに蠢く影があったのは知って
 
        るけど、絶対に見ない。
 
        痛そうだとか、可哀想だとか、普段なら彼に感じるそんな思いが欠片もなかったから。
 
        「そんな顔、するんやない」
 
        隣から伸びた大きな手が、優しく髪を撫でるのにそっと目を閉じて、あたしは冷たい感情に蓋
 
        をした。
 
 
 
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