35.


足早にというよりは、半分走っているような速さで彼等は街を目指す。
それはヒナにとって明らかに無理な行軍であったが、急ぐ理由はもとより重苦しい空気の訳がわかっているから、 彼女は黙ってもつれそうになる足と戦っていた。
「ギリスで馬を調達すれば、国境まで3日でいけるな」
ヘリオの口調がこれまで聞いたことがないほど冷静で、感情のない、指導者のそれであったことにヒナは驚く。
あまりにも身近にいて、傲ったところもない人間だから忘れていたが、彼とて立派な皇子だったのだ。
「それは昼夜走り通した場合です。馬に乗れないヒナと、女性のラダーを連れてそれほどの強行軍は無理でしょう」
いつだって優しく語りかけてくれるディールの声も常とは違って、少女を守るためというより現実を淡々と分析している だけの風にそっと隣を伺った。垣間見た表情もやはり、厳しくある。
「あたしのことは気にしないどくれ。多少の無茶に耐えられないほどヤワじゃない」
言い放つラダーの恐い顔も、いつか聞いた偉大な魔女としての片鱗を覗かせているようでヒナが抱く恐怖に拍車をかけた。
誰もが緊張して焦っているのだ。それほど状況は悪い。
匿ってくれるというなんとかさんの元へつくのが先か、帝国の追っ手に捕まって国内に連行され処刑されるのが先か。
分の悪い賭だとヘリオは頭を掻いていた。圧倒的に敵の方が数が多いと。
ラダーやディールが本気で戦えば軍隊の一つや二つ簡単に壊滅させられるだろうが、それでは本物の罪人になってしまう からやっかいなんだと真顔になった殿下は、立派な皇太子だ。
だからこそと、ヒナは唇を噛んだ。5人分の命がかかっているここが、踏ん張りどころだと。
「…あたしも、平気。確かに馬は乗ったことないけど、体を縛り付けといたら振り落とされないでしょ?」
未知の経験をするということの強みは、それに伴う危険や恐怖を知らないところだろう。
「無茶です、ヒナ」
「できませんよ、ヒナ」
即座に彼女の意見を却下した彼等には、数日馬に揺られることがどれほど大変かわかっていても、当の本人にそんな知識 はない。
「やってみなきゃわかんないじゃん。平気平気」
あまりにも簡単に否定されたことで意地を張ってしまったヒナは、心配げに見下ろす視線に横を向くと先頭を行くヘリオに 3本指を立てる。
「行っちゃおう、3日で。ね?」
「…そうだな」
「…ま、なんとかなるだろう」
殿下と魔女が返事を躊躇った理由を知ったのは、一日と少し後のこと。


走り通した馬からディールに抱き下ろされて初めて、彼女は立てないほどに膝が震えていることに気付いた。
いくら落ちないように体を縛っていても恐怖で全身に無駄な力が入っているし、何度も跳ね上げられるたび痛みが走る から庇おうと緊張する。それが今ヒナの体を襲っている疲労と苦痛の正体だ。
けれどまさか、これほどひどいとはと、彼女を軽々抱き上げたディールの暗い顔に思う。
「1人では無理だと言ったではありませんか」
自分の馬に同乗させると最後まで譲らなかった彼は、しっかり縛ってねと縄を差し出した時ずいぶん複雑な顔をして唇 を噛んでいた。
基本的にヒナの望みは全て叶えると決めているディールにとって、命に別状のない願いなら是と言わざるを得ない。
しかし、彼の想い人は呆れるほど無謀で泣けてくるほど考え無しで、哀しいくらいお人好しと来ている。今度のことだって、 馬に2人で乗れば隣町まで全速で走らせることは不可能だと、彼等が話しているのを漏れ聞いての無茶であろう。
「大丈夫だって、ホント」
力ない笑みを零して否定してみたところで、一体どれほどの説得力があると彼女は思っているのだ?
歩くことさえままならないのにまだ意地を張ってみせるヒナを、一生自分の腕の中に閉じこめてしまいたいと切に願いな がら、けれどディールは今それを選ぶことはできない。
己の感情より優先すべきは、仲間の命。
彼女と出会わなければ、彼はそれを簡単に切り捨てただろう。世界に、自分に絶望していたあの頃ならきっと、他人の死も 己の死でさえ、すんなり受け入れた。
だが、ヒナと共に旅をすることで、ヘリオやラダーが時折彼に見せてくれる淡い優しさに気付いてしまってはもう、できな い。
実母さえ存在を許してくれなかった彼を認め、心を掛けてくれる人達を自分は大切だと思っているのだ。
死なせるわけにいくものか。
「…すみません…貴女に傷一つ、つけたくはないのに…」
急場を乗り切るには、この世界に馴れていないヒナが鍵となる。彼女を守れば皆の命を脅かし、皆を優先すれば彼女に無理を 強いる他ない。
ぎゅっと少女を抱きしめながら、それでもディールは次の馬にヒナを乗せた。
振り落とされないようけれど痛みを与えないよう縄で体を固定して、スカートを膝上までまくり上げる。
「ちょ、ちょっと!なにすんの、エッチ!!」
「他意はありませんよ…手当を、したいのです」
慌てて裾を押さえた手の隙間から、痛々しい擦り傷が覗いていた。内膝には広範囲で血が滲み、ふくらはぎの半ばまでは いくつもの内出血が肌を斑に被っている。
初めて馬に乗った子供が必ず起こす症状で、たいがい皮膚が破れる前に乗馬の授業は中止されるのであるが致し方ない。
「だだだ、大丈夫だって!!」
「強がっても良いことはありません」
魔力の均衡とやらを取り戻してくれたアリアンサに感謝しつつ、ディールは治癒の呪文を低く紡いだ。
掌を淡い熱に染めてヒナの足をひと撫ですると、傷も痣も嘘のようにキレイに消える。
それは顔を真っ赤に染めて抵抗していた少女が一瞬閉口してしまう見事さで、元凶がなくなることで少し和らいだ苦痛に 気持ちもほっこり和んでゆくようなのだ。
回り込みもう片方の足からも痛みを無くしてくれたディールは、そのあと足に幾重にも布を巻き上からそっと口づけを 落とす。
「え、あの、その…っ」
純粋な好意に裏打ちされた行動だとヒナにもわかっている。わかってはいるが、どうにも淫靡に見えてしまうのは熱っぽく こちらを見つめるその瞳のせいなのではなかろうか。
「始めからこうして差し上げれば少しは負担が減ったでしょうに、私は気づきもしないで」
「〜〜〜〜〜っ!!」
艶たっぷりの声までおまけに付けるとは、ディール恐るべし。 馬上で気味悪く悶えながら「天然だ、天然物のエロスだ」と呟いた彼女は、だだ漏れに愛を囁くいつもより、この攻撃の方 が強力だと心臓を押さえて鞍に顔を伏せた。
なぜだか全身が熱い。顔だけでなく耳まで真っ赤になっているのが感覚でわかるし、痛いくらいバクバク言っている胸も、 奇妙に高揚している感情も、制御不能。
「ヒナ、どうかしましたか?」
名前を呼ばれるだけで甘いしびれが体中に走るなんて、悪い病気だったりしたらどうしよう。
不安になった耳に届く吐息混じりの回答は、一層彼女を混乱させた。
「恋だよ、恋煩い。お前さん鈍いね」
「ええっ?!嘘!先輩好きだった時と、全然違うけど??」
知らない感覚だから戸惑っているのに、これまで経験したことのある恋はもっと楽しくてワクワクして、切なくなること はなかったのに。
「そりゃ、熟成が足りなかったんだろうさ。本気で相手に惚れ込んだらいても立ってもいられなくなるもんなんだよ」
年嵩の女性が訳知り顔で教えてくれるものを否定できる材料など、十数年しか人生を経験していないヒナにあるはずもなく。 言われてみれば、そんな気もしてくるのだ。
「恋…してる?」
「ええ、してるんですよ」
「してんだろうね」
得意げな声とめんどくさそうな肯定と。
「思いこみです、そんなもん!!」
「ほお〜恋するとあんな症状が出る訳か」
ヘリオに羽交い締めされたセジューが必死で送る否定は、恋する乙女には全く届かなかったそうだ。


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