17.              
 
           夜が明けて。
 
           と言っても太陽と月に名称が変わっただけで、周囲の様子に変化はないのだが、夜
 
           明かししてまで真理の追究に努めたものと、質のいい睡眠をとったものでは顔色が
 
           違う、精神状態が違う。
 
           ちょうど焚き火のあちらとこちら、良い見本があるではないか。
 
           「ラダー、年を考えたら完徹とかまずいんじゃない?」
 
           味より栄養価を重視したぱさぱさの干し肉で空腹を満たしつつ、ヒナは疲労の色濃
 
           い魔女に遅すぎる忠告を送る。
 
           「…誰かさんと違って、世界の危機に真剣なんだよ」
 
           面白くもなさそうに呟いた彼女は、目に染みる朝日に顔をしかめつつ薫り高いお茶
 
           を一口啜った。
 
           「それよりアリアンサはお前さんに伝えられるだけの真実は伝えてあると言ってい
 
            た。なにを聞いたのか話しちゃくれまいか?」
 
           その真剣な面持ちの恐いこと恐いこと。直視したヒナは隣で同じように頷くヘリオ
 
           にも怯えて、一瞬飛び上がったくらいだ。
 
           もちろん、直後に大変強力な人物によって保護されたのは言うまでもないが。
 
           「お二方とも、ヒナを脅してどうします」
 
           表面上は非常ににこやかな分、言外に伝えてくる言葉の迫力は倍増である。
 
           ゆるりと回した腕で少女の体を引き寄せながら、やるならお相手しますがと背後で
 
           闇色の魔力がスパークしているのだから勢いで問いつめようと息巻いていた2人は
 
           こくりとつばを飲んで、表情を引きつらせた。
 
           「いや、そんなつもりはなかったんだ。すまんな、一晩考えても全く手掛かりに行
 
            きつけんので、八つ当たった」
 
           顔の前で激しく手をはためかせながら苦し紛れに絞り出す言い訳は、けれど真実で、
 
           同意するよう頷いたラダーも思考することに疲れ切った表情でふと笑ってみせる。
 
           「彼女が知りうる真実とやらを欠片でも分けてもらえたら、あたしの中で引っかか
 
            ってる疑問も解けるような気がしてね。大したことではないのかも知れないし、
 
            ヒナが聞き得た話じゃ手助けにもならないかも知れないんだが…」
 
           そう、なにか大事なことを忘れている気がしてならないとラダーは呟いて。
 
           昨夜からちょっぴりいじわるしすぎたかなと、大層悩んでいる様子の魔女にヒナも
 
           反省した。
 
           「あ、あのね!」
 
           いつまでも隠しておくことではないし、元よりこのヒント、ラダー以外に教えても
 
           意味はないとアリアンサに聞いていたから。
 
           ディールの腕から這い出たヒナは、憔悴が見て取れる魔女の耳元に唇を寄せて零さ
 
           ず言葉を注ぎ込む。
 
           「ディング・バダ・ブラウ」
 
           この意味のない文字の配列を覚えるのは、対して良くない自分の頭では結構大変だ
 
           ったのだ。なにせ彼女は1回しか言ってくれなかったのだから。
 
           どうか、間違っていませんように。
 
           祈るように一字一字を発音した彼女は、事の成果を確かめようと身を引いてラダー
 
           の様子を窺った。
 
           ヒナの拙い想像では、この一言で簡単にラダーの悩みは解決され溢れんばかりの情
 
           報が公開される、はずなのだ。
 
           皆の用意は整っている、さあ、重要な発表をどうぞ。
 
           微笑んで得意気に言おうとした彼女は、次の瞬間凍り付いて悲鳴を上げながらラダ
 
           ーに飛びつく。隣で様子を窺っていたヘリオも、対岸から成り行きを見守っていた
 
           ディールも風のようにラダーを取り囲みその決して大きくない体を押さえ込んだ。
 
           「ぐっ、ああああ、あぁ!!」
 
           唸りに近い声を上げ、火も飛び出す岩も気にせず転げ回ろうとする魔女を3人で必
 
           死に一所へ縫い止める。
 
           苦悶の表情のままやたら目ったら振り回される腕に何度も叩かれて、それでもヒナ
 
           は回した腕を放せない。
 
           あの言葉は、一体なにを意味していたのだろう。すれ違いざま、
 
           『大切な言葉よ、忘れないでね』
 
           と微笑んだアリアンサはこんな事になるなんて教えてくれなかった。ただ、きっと
 
           あなた達を助ける情報になると、微笑んでいたのに。
 
           「ごめん、ごめんね、ラダー。痛い?苦しいの?」
 
           自分のせいだと、ヒナは流れそうになる涙を必死に堪えて強くラダーを抱きしめ続
 
           けた。
 
           どれ程そうしていたのだろう。
 
           諫める調子のヘリオの声も、珍しく慌てた口調で喋るディールも沈黙して、辺りに
 
           静寂が戻る頃、ヒナの髪をくしゃりと撫でる優しい指がある。
 
           「…もう、大丈夫だよ」
 
           疲れを滲ませているが、それは紛れもなくラダーのもので、弾かれたように顔を上
 
           げたヒナは魔女の無事を懸命に見て取ろうとした。
 
           少々埃で汚れた髪と、暴れたせいで頬に赤みが残っているが取り立てて傷もない、
 
           目の光りも正常だ。どちらかといえば引っかかった爪で頬にうっすら血を滲ませた
 
           ヒナの方が、怪我人といえるだろう。
 
           「ラダー…ごめんなさい〜」
 
           良かったと、心底、あの状態で彼女がどうにかなってしまわなくて良かったと、そ
 
           のまま胸に顔を埋めた彼女は子供のように泣きじゃくる。
 
           なんでこんな事になってしまったのか、さっぱりわからない。アリアンサにいじわ
 
           るされたのか、そうだとしたらなんて質の悪い事をするのだろう。
 
           激しくしゃくり上げながら遅きに失した自己反省を繰り返すヒナを、ディールがそ
 
           っと抱き取った。
 
           ラダーから引き離されるのは本意じゃないと小さく首を振る少女に微笑んで、彼は
 
           大儀そうに体を起こす魔女に視線を投げる。
 
           それを追ってヒナは沈黙すると、大人しく外套に涙を吸わせる為広い胸に顔を埋め
 
           た。自分が乗っかっていたせいで、ラダーは起きあがって体勢を整えることができ
 
           なかったのだ。アレでは満足に話すこともできないだろう。何しろヒナは魔女の体
 
           の上に、全体重を預けて前後無く泣いていたのだから。子供みたいに。
 
           「やれやれ、ひどく乱暴な術をかけてくれたもんだ」
 
           忙しなく埃を落としながら、限界を超えて暴れた代償に痛む節々をなでさする。
 
           口調は投げやりなのに、その実ラダーの顔は実に晴れ晴れと嬉しそうで心配を浮か
 
           べながらいつ手を貸そうかと身構えていたヘリオなど眉を寄せたくらいだ。
 
           「獣のごとき咆哮を上げ、意識が飛ぶほど暴れることのなにがそんなに喜ばしいと
 
            言うんだ。やっぱり、どこかおかしくしたんじゃないのか?」
 
           「…失礼な。お前さんそんな浅慮で、よく一国の皇太子が務まるもんだね」
 
           辛辣とはいえ一応の気遣いをしたつもりの殿下に返されたのは、軽く数倍返しのイ
 
           ヤミで、いきり立って反論しようとした彼の耳には不遜な配下の押し殺した笑みま
 
           で聞こえる始末。
 
           「…ディール」
 
           殺気を充分にまぶした声に、けれど反応は冷ややかだ。
 
           「殿下、ラダーが「術」と言ったのをお聞きになったでしょ?必死に千年前への手
 
            掛かりを捜している現状で、ヒナが囁いた言葉に苦しみながら彼女が笑う理由が
 
            おわかりになりませんか?」
 
           言葉を切ったディールは、腕の中の少女に甘美な視線を落として首を傾げる仕草で
 
           問う。
 
           ”あなたには、わかりますね?”
 
           こくりと唾を飲み込んで、彼からラダーへと目をやったヒナはうっすら微笑む魔女
 
           に破顔した。
 
           答えはその穏やかな顔が示している。
 
           「役に立ったんだね、あの言葉」
 
           苦しめただけかと、思っていたのに。
 
           「ああ、どうやらずっと、師から弟子に受け継がれた呪いだったようだね」
 
           そう言ったラダーは、こめかみの辺りをひとさすりすると、これ見よがしに盛大な
 
           ため息をついて見せた。大げさに肩を竦めるジェスチャーまでつけて、食えない連
 
           中だと一人ごちる様子からも、膨大な情報を得た様子が見て取れる。
 
           誰もが安堵の吐息を漏らした。ラダーの無事を感謝して、貴重な手掛かりに胸をな
 
           で下ろす。
 
           …殿下を除いて。
 
           掴んだ真実を拝聴するために、ディールが元いた場所へ戻りヒナごと腰を下ろした
 
           のに対し、未だ理解できず突っ立ったままのヘリオはやがて忘れ去られた。
 
           「そうだね、どこから話そうか…」
 
           冷めたお茶を啜りながら、ラダーが口火を切るその瞬間まで。
 
           「ちょっと待てっ!!」
 
           今更仲間に入ろうったって、遅いんである。
 
 
 
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