9.side青           
 
        僕が欲しくて手に入れられなかった唯一無二の存在。気まぐれな神様が遅すぎる恩恵を与
 
        えてくれた日を、絶対に忘れない。
 
        最悪の一日の締めくくりは、新しい家族との対面で終わる予定だった。
 
        痛む頬を押さえつつ少々ガタのきた引き戸を開けた僕は憤懣やるかたない。
 
        なんで殴られなきゃならないんだ。怒りの対象に据えるべきは、彼女の方だろ。
 
        中学校まで乗り込んできた暇人高校生に、言われない暴力を振るわれたのはほんの数時間
 
        前のこと。油断さえしていなければ、かすることもなかった拳に直撃を受けた顔は
 
        低周波治療器でも仕込んだが如く規則正しい痛みを伝えてくる。
 
        理不尽じゃないか。差し出された据え膳を諾々と受けたことがそんなに罪か?昔から言う
 
        じゃないか、据え膳は食わない方が男の恥なんだぞ。抱いてと言われた女に、いちいち恋
 
        人の有無まで問うほどの関心はない。
 
        バカな恋人の下らない痴話喧嘩に巻き込まれ、更には大嫌いなあいつ(口惜しいので花の
 
        夫だとは断じて言わない)にも会わなければならない今日は間違いなく厄日だ。それも特
 
        大、久しぶりにお会いする超弩級の災害。
 
        仏頂面を引っさげて、足音荒くリビングへ向かっていた僕のカバンを引く存在は、だから
 
        余計に神経をさか撫でた。
 
        力一杯、つんのめりそうなほど引っ張るってどういう了見だよ!
 
        「呼び止めるなら、声をかける方が効率的だろ」
 
        勢いのまま振り返り、炎でさえも凍り付きそうな視線を投げた先に人影はない。
 
        …ないってなんだ。幽霊が生身の人間を呼び止めたとでも?
 
        「ちゃんと呼んだもの」
 
        ふるっと体を震わせるより先に、どこか舌っ足らずで甘い声が遙か下から立ち上る。
 
        「ここだよ、お兄ちゃん」
 
        体の自由になる範囲、この場合首を回して見える程度だからおよそ200度ちょっとてと
 
        こだな、その辺に訝しげな視線を這わせた背後からもう一度声がかかる。
 
        なんなんだと、見落とさないよう体を反転させた先に彼女はいた。
 
        大きさにして1メートル弱、緩やかな巻き毛と天使を思わせる柔らかで可愛らしい風貌、
 
        小首を傾げるっていうクラスメートの女共がやったら、しらけた視線の一つも送りたくな
 
        る仕草がイヤにマッチした美少女。
 
        できるなら10年後の君に会いたかったね、と言うのはセクハラか?
 
        「お顔、痛い?」
 
        いっぱいに伸ばした腕だけで抱っこをせがみながら、漆黒の瞳が曇る。
 
        秋(あき)の世話をしすぎたせいかすっかり身に付いた条件反射で小さな体を抱き上げる
 
        と、マシュマロのような指先が腫れているだろう口元をなぞった。
 
        「あのね、青くなって赤いの。お兄ちゃん、痛い?」
 
        「ああ、ちょっとね」
 
        実際には触れられた場所が焼け付く痛みを発していたが、子供に心配されるようじゃお終
 
        いだからね、やせ我慢に微笑んで見せようじゃないか。
 
        「ママがね、アスカ痛いとふーふーしてくれるの。お兄ちゃんもふーふーすると治るかな」
 
        問いかけるけど、返事を待つつもりはないらしい。尖らせた唇を近づけて赤黒く晴れ上が
 
        った口角に優しく息を吹きかけた天使は、悪魔も裸足で逃げ出す清々しさで辺りの空気を
 
        浄化してしまった。
 
        なんだろう、善悪はともかく怪我の経緯を考えるとこんな施しを受けちゃいけない気がし
 
        てくる。どころか自分の汚れ具合に目眩を感じるほどだ。
 
        「まだ、痛い?」
 
        目を閉じて己の中の邪心と闘っていたのを、優しい彼女は大いに誤解して更に頭を撫でて
 
        くる。
 
        「大丈夫だよ、治るまでアスカが一緒にいてあげるからね。ずーっと傍にいてあげるから
 
         ね」
 
        ………この手セリフを子供が言うのは、間違いなく親の受け売りだ。
 
        へこんだり泣いたりしている少女を抱きしめた母親が、同じ仕草で同じ言葉を紡いだのだ
 
        ろう。
 
        わかってる、僕だってバカじゃない。ダテに15年、人間社会の荒波に揉まれてきたわけ
 
        なじゃない。
 
        わかっちゃいるけど、庇護対象を求め、庇護されたいと願い続けた心がストンと、モノの
 
        見事に落っこちたわけだ。
 
        赤ん坊に近い女の子に、ほぼ初対面の彼女に。
 
        だからこう、中学3年生じゃ犯罪だろうとか、正気か自分、みたいな確認作業なしで、直
 
        球勝負…いや相手の年齢を考えたら詐欺だな、そんな暴挙に出てしまった。
 
        「ホントに?」
 
        薄目を開けて心配に曇る表情を眺める、僕は鬼畜だ。
 
        「お兄ちゃんが痛いって言ったら、ずっと一緒にいてくれる?」
 
        外傷なんてすぐに治ると、この子は知らないに決まってるのに。
 
        「もう痛くないって言うまで、傍にいてくれる?」
 
        これ以上はやめろよ、て止める心の声も聞かずさも苦しそうに眉根を寄せたりなんかして。
 
        「うん、いいよ。アスカずーっと一緒にいてあげる」
 
        無邪気に約束してくれるとわかっていたが、できるならこの声を録音して永久保存した
 
        い!妙齢になった彼女が、オヤジ化した僕に愛想を尽かしても逃げられないよう、保険を
 
        かけたい!
 
        そっと目蓋を上げて、本気で案じてくれる少女の髪に触れる。綿菓子みたいにふわふわし
 
        て、彼女の心とよく似た手触りの髪。汚れを知らずに無邪気に輝く瞳、どれも必ず僕が守
 
        る、僕だけの天使、に決定。
 
        「お兄ちゃんね、『あお』て言うんだよ。呼んでみて」
 
        微笑んで促すと、ちょっと考え込んだ少女は納得いく呼び名で僕をそっと呪縛した。
 
        「あーちゃん。あのね、ママはママの前みーちゃんだったから、お兄ちゃんはあーちゃん」
 
        他の誰にも呼ばせない、彼女だけの魔法の言葉だと小さな君は気づいていない。
 
        「うん、いいね。今日から僕はあーちゃんだ。じゃあ君はなんて呼んだらいいのかな?」
 
        さっきから何度も出てきてるけどね、きちんと教えて。
 
        すると腕の中でピンと背筋を伸ばし、癖なんだろう小首を傾げた仕草で彼女が答える。
 
        「乃木アスカ、4才です。あのね、でももうすぐ星野アスカになるんだよ」
 
        最後の方はくすくすと微かに笑いを含ませて、内緒話の仕草で耳に吹き込んだから、やっ
 
        と思い当たることができた。
 
        そうか、アスカは兄さんの言ってた新しい家族。
 
        奇特にも性格の歪んだ男を夫にしようと言う寛大な女性が、これまた寛大な精神で育てて
 
        いる姪っ子だったのか。
 
        それなら話は早い。
 
        「11くらいの年の差は根性で埋めるとして、やっかいな筈のアスカのパパが兄さんだっ
 
         たのはラッキーだと思わない?」
 
        「?」
 
        もちろん、意味などわからずきょとんとするアスカを腕に、リビングに入った僕の第一声
 
        はその場にいた誰をも凍り付かせるのに、充分な威力を要していた。
 
        「突然なんだけど、アスカは将来僕に頂戴ね」
 
        見覚えのない綺麗な女の人が固まった横で、ポカンと口を開けた兄さんがこれまた固まっ
 
        ている。
 
        花は驚いて秋のお茶碗をひっくり返すし、薫は飲みかけのビールを盛大に噴き出した。
 
        「…失礼だな、そんなに驚くことないだろ」
 
        故意に薫の天頂にカバンをぶつけながら、コタツの空席に滑り込んだ僕は膝にアスカを抱
 
        え直すと、注視されるのをきっぱり無視して豪華な料理に視線を移す。
 
        「もうご飯食べた?」
 
        「ううん、まだだよ」
 
        「じゃお腹空いたろ。なに食べたい?」
 
        「アスカね、プリン!」
 
        「だーめ、プリンは食後。ほら、これはどう?」
 
        開いた口に生ハムとチーズを放り込んで、ゆっくり咀嚼する天使を見やった。
 
        さぐるようだった表情が徐々に綻んで、もっとせがまれる頃ようやく兄さんの復活だ。
 
        「あ、あ、青!!!お前何言ってるんだ!なんでアスカをくれてやらなきゃならん!!」
 
        「僕にアスカが必要だからでしょ」
 
        真っ赤になって怒鳴る前に、理性を働かせたらわかりそうなもんだけどね。
 
        二口目の料理をアスカに与えながらちろりと傍らを睨め付けると、今にもぷっつり行きそ
 
        うな兄さんが震えている。
 
        「ふ、ふざけるな!いくつ違うと思ってるんだ!!」
 
        「11」
 
        「わ、わわわかってるならな〜!!」
 
        「問題ないでしょ。恋するのに年はさ」
 
        「一方的に恋してるだけじゃないか!アスカに恋愛がわかるか!!」
 
        「あーちゃんとずーっと一緒にいてくれるんだよね?」
 
        「うん」
 
        間髪入れずに娘が頷いた辺りで、父は撃沈した。そっと励ます義姉さんには悪いけど、う
 
        るさいから復活させないで欲しい。
 
        「ゆ、ゆ、ゆ、ゆるさんからな!!!」
 
        はいはい。自分は幸せになったんだからさ、弟がやっと手に入れたもんにケチつけるのや
 
        めてよね。
 
 
 
        その夜、激高した兄さんに夕食どころじゃなくなった我が家は、不名誉にも僕がもう一度
 
        殴られるっていう憂き目にあってなんとか収拾を見た。
 
        でも、アスカは最後まで僕が抱いていたけどね。結局勝者は誰か、言わなくてもわかると
 
        思わない?
 
 
 
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