6.side薫  ウォール     
 
        彼女を手に入れるには、もう一つ高いハードルがあったんだ。
 
        俺たちの間に割って入った少年、可愛らしい弟。
 
        「あいつ…青って言ったか。怒ってるだろうな」
 
        繋いだ手の先で穏やかに微笑んでいた花はふと表情を曇らせると、小さく頷く。
 
        「怒ってるのは青くんだけじゃないよ。お兄ちゃんはもっと、だから」
 
        「兄貴?」
 
        初耳だ。いや、ついさっき名前を知ったばかりの俺には知らないことだらけだと言うのが
 
        正しい。
 
        「家はね、世帯主のお兄ちゃんと私、弟の三人暮らしなの」
 
        簡単に家庭の事情というやつを語った花の暮らしは、並の10代からすれば波瀾万丈、初
 
        めて会った時の悲しげな笑顔も説明がつくもので、だから尚更兄弟の存在は俺には脅威だ。
 
        「…この数ヶ月の彼等の感情が手に取るようだよ…」
 
        妊娠を告げた妹、きっと怒り狂ったんだろうな。花は俺の名を知っていても絶対あさなか
 
        っただろうし。
 
        見るからにシスコン全開の弟だって、今日初めて不埒な男の存在を認識したんだ、今頃は
 
        ああしてやろうこうもしてやると不気味な想像に頭を捻ってるに違いない。
 
        …ちょっと、だいぶ、花を攫って逃げてたくなってきた…いや、ダメだ。それじゃこいつ
 
        から大事な家族を奪っちまう。俺が腹を決めて殴られればそれですむ…はずだ。
 
        「そんなに怯えなくても大丈夫、きっと許してくれるよ」
 
        不安を払拭するように笑うけどな、それは気が済むまで俺をいたぶり倒した後だと思う
 
        ぞ?
 
        沈む夕日に行き交う人達は皆家路を急ぎ、笑い合う親子、漂う夕餉の香り、間違いなくそ
 
        こにある平和な家庭。
 
        だが、俺に来るのはバイオレンスな嫁取りだ。耐えられるかな。
 
        「まあ、結局通らなきゃならない道、だしな」
 
        責任取るってそう言うことだろ?
 
        今傍らにある幸せだけを噛みしめる、これがずっと手にはいるなら多少の苦難はいとわな
 
        いさ。
 
        夢にまで見た花の存在と、思いがけずプレゼントされた子供とを見つめて浮かれていた自
 
        分は愚かだと気づくのに時間は掛からなかった。
 
        …花屋はすぐそこだからな…。
 
        「おかえり、花」
 
        もちろん待ちかまえていた弟は、店先にいるのが手を繋いだ男女であることはきっぱり無
 
        視して、姉だけを極上笑顔で迎える。
 
        「ダメだよ、そんな体で走ったら。心配したんだからね」
 
        「あの、青く…」
 
        「ほら、早く入って」
 
        流暢な喋りは口を挟む暇も与えず、おろつく花は強引に家に引っ張り込まれる寸前だ。
 
        俺が手を離したら一瞬で持って行かれるだろうその力を考えると、奴の微笑みの下に隠れ
 
        ている怒りの程が見えるけどな。
 
        「悪いがこいつだけを行かせるわけにいかないんだ」
 
        踏ん張って人間2人分を支える俺の声に、半身振り返った弟が初めて視線を合わせてきた。
 
        憎々しげな光りを宿すそれは、天使のような外見とは真逆に凶悪な色を放っていて羨望の
 
        眼差しで見られることを常としている身には痛い限り。
 
        背筋が寒くなるような空気だな、おい。
 
        「人の身内を『こいつ』呼ばわりとはいい度胸だね」
 
        失敗した。相手が年下と踏んで全く敬意を払うのを忘れてた。
 
        鼻で笑う風情の彼は力一杯の蔑みをくれると、子供とは思えない剣呑な瞳を向けてくる。
 
        「芸能人は常識が欠如してるんだ。ま、そうじゃなきゃ女の子を妊娠させて捨てるなんて
 
         マネできないもんね」
 
        いちいち厳しい突っ込みに、反論できないのは悲しい限りで。
 
        自分でまいた種とはいえ、逃げ道の一本もない状況でこの先どう切り抜けたもんか。
 
        「あ、青くん、片桐さんはその…妊娠以前に私の連絡先も知らなかったから、ね?」
 
        ナイスフォロー、と言いたいとこだけど花、今はそれ逆効果だ。
 
        表情を無くした弟くんは、殺気さえ含んだオーラを纏ってこっち睨んで来たから。
 
        「…へえ。花は一晩限り、やるだけの相手だったと」
 
        「小学生がどこでそんな言葉覚えてくるんだよ…」
 
        「問題なのはそこじゃないだろ」
 
        思わず口をついた疑問がドツボにはまったのは言うまでもない。
 
        硬化させちゃっただろ…貝が殻に閉じこもるみたいにさ、和やかにお話しどころか日常会
 
        話でさえも困難な空気が流れやがった…。
 
        どうする、俺。ここじゃ人気も金も全く通用しないんだぞ。人間対人間、いかに素直に心
 
        の内をさらけ出せるか、それが全てだ。
 
        手詰まり、行き止まり、呼吸困難。あらゆる不幸が今俺を襲ってる!
 
        「と、とにかく店先じゃなんだし中へ…」
 
        「冗談。家の敷居を跨がせないって言う言葉は、こんな時使うんじゃないの?」
 
        大好きな姉の言葉も怒髪天を突いてる奴には通じることなく、サラリと鼓膜を通過するら
 
        しい。
 
        小さな商店街のこと、ギャラリーも集まり始めて顔の知れてる俺としては冷や汗もんなん
 
        だが、これを言ったら刺激を重ねるしなぁ…。
 
        「君が怒るのも無理はない状況だと思うんだが、できれば話だけでも聞いてもらえない
 
         か?」
 
        できるだけ穏やかに、かつ真摯な態度でお願いしたつもりだったんだが、無言の表情は諦
 
        める以外の選択を認めるつもりはないらしい。
 
        さて、困ったな。そればっかりは飲めない要求だ。
 
        同じように困惑に眉をしかめた花とチラリと視線を交わし、打開策をとなけなしの頭を捻
 
        った時、天の助けか地獄の使者か低い低い声がした。
 
        「何をしてるんだ、公衆の面前で」
 
        振り返った先に鋭利な刃物のような容貌の男。
 
        …俺ってどこまでバカなんだろうな。助けなんか来るわけない、よしんば味方だとしたっ
 
        て、事の次第を聞いたら絶対糾弾される。
 
        つまり、整った風貌を不機嫌に歪めて、たいして変わらない目線が蔑みを抱いている彼こ
 
        そ大ボス、長男様と言うわけだ。
 
        …アーメン。
 
 
 
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