5.side花       
 
        なぜ、あの人がいるの?
 
        もう絶対会うことはないと思ってたのに、だから赤ちゃんだって産もうと思ったのに。
 
        記憶は未だに曖昧で、どうして彼の部屋にいたのかさえ思い出せないけど、たった一つ繰
 
        り返し見る夢だけは真実を語っているような気がした。
 
        素肌の温もりと、掠れた声。
 
        甘く囁かれる『好きだ』って言葉が、呪文のように体の自由を奪ったあの瞬間。
 
        霞む視界で柔らかく三日月を描いた瞳が、一握りの勇気をくれた。
 
        大丈夫、この子はきっと愛されて生まれる。
 
        冷たい朝は忘れて、暖かな夜の欠片だけを抱いて、育てていけばいい。
 
        テレビから溢れる姿や街を染める声が胸を苦しくさせたけど、大きくなるお腹が些細な物
 
        思いを吹き消してくれたから、私は笑っていられたの。
 
        黙って許してくれたお兄ちゃん、検診についてきてくれる青くんにも沢山勇気をもらって、
 
        1人で育てる自信がついたところだったのに。
 
        背後からずっと、足音がついてくる。きっとすぐにも追いつける位置にいるのだろうに、
 
        その距離は縮むことなく一定に保たれて。
 
        まるで向き合うのを恐れているみたい。
 
        今頃頭の中で必死に計算をしてるのね、あの時の子供なのかどうか。
 
        想像したら、逃げ回るのがバカらしくなった。私は悪いことなんてしてないもの。
 
        どんな責任もあの人に負わせる気はないわ。…ううん、関わってなんかほしくない。
 
        「そんな体で走るな」
 
        そっと肩に触れた手が、壊れ物でも扱うようにくるりと視界を反転させる。
 
        ぶつかる瞳にあるのは困惑。いつの間に外したのかサングラス越しでない青い瞳に、優し
 
        夜の夢がだぶる。
 
        「追われなければ、走ったりしないわ」
 
        商店街を抜けた住宅地は人気もなく、緊張を孕む空気を乱すものは何もない。
 
        切り取られたように重い空間で、次の言葉を探す彼を制すため先に口を開いた。
 
        「二度と会いたくなかったでしょ?私だって同じよ。あなたの顔なんて見たくなかった」
 
        否応なく街に溢れる陰から、どれほどの思いで目を背けたかわかりもしないくせに。
 
        「帰って、二度と姿を見せないで」
 
        枯れた涙がこぼれることも、憎悪で視界が曇ることもない。
 
        立ちつくす彼の隣を、家に戻るためすり抜けるそれだけ。
 
        過去なんて欲しくないの、この子と2人未来だけがあればいい。両親の死に直面したあの
 
        時のように前だけ向いて生きるって決めたんだから。
 
        「それでも、父親は俺、だろ?」
 
        「…だから?」
 
        わかればほっておけない?
 
        振り向いた先で探る表情の彼を、笑う。
 
        「私の赤ちゃんよ。父親なんていらない」
 
        「結婚しよう」
 
        「…くだらない」
 
        間髪入れない申し出は、受け取ることもできない軽薄さで更に笑いがこみ上げる。
 
        「子供ができたら結婚?覚えてないことにまで責任を感じる必要はないわ」
 
        「覚えてる!…ちゃんと全部思い出した」
 
        逸らされた視線の元で絞り出された声は、本物なんだろうか。
 
        うなだれた姿も、唇を噛む様も痛々しいと見えないこともないけれど、真実が読み取れな
 
        い。
 
        「それでも…過ぎた時間が戻ることはないから」
 
        冷たく放り出された朝が消える訳じゃない。妊娠を知って押しつぶされそうだった日々に、
 
        彼が現れる訳じゃない。
 
        「俺のせい、なんだ。帰るって言ってたお前を引き留めた、もう飲めないって言ってたの
 
         に無理にすすめた。半分意識が飛んでるのわかってて、抱いた」
 
        言いづらそうに真相を語った、彼。
 
        そう、だったんだ。飲み過ぎたんだとは思っていたけど、潰れるまでとは知らなかった。
 
        好きな人と、と考えていた初めてをいともあっさり手放した理由もわかった。
 
        「だから、やり直せないか?」
 
        なにを?始めてもいないものをやり直す方法なんて、知らない。
 
        訝しんだ私に、自嘲で歪んだ彼の顔が見える。
 
        「俺が、お前に惚れたところから。欲しいと思った、それを告白するところから」
 
        「…あるの…?」
 
        考えたこともなかった。有名人の彼には、繰り返してる遊びの一つなんだと信じていたか
 
        ら。夢の中で囁かれる睦言も、誰もが聞いているものだと疑わなかったから。
 
        真っ直ぐに見つめる瞳に本気を乗せて、耳を真っ赤に染めた片桐薫が語る。
 
        「前を見るって言ったお前を、手に入れたいと願った。子供のくせに大人みたいに笑うの
 
         を抱きしめたかった。…俺は曲を書いて歌えればそれで良かったのに、事務所の連中に
 
         ドラマや映画を押しつけられて仕事に嫌気がさしていた頃で、自分を支えてくれる誰か
 
         が欲しかったんだ。なのに寄ってくるのは金や容姿に引かれた奴らばっかりで、守って
 
         やらなきゃならない女もいなくて。辛くても進むんだと言ったお前が欲しかった。俺に
 
         見えない道を見てるお前と一緒なら、行ける、そう思ったから」
 
        長い独白を終えた後、うまく説明できないと彼は微笑んで、両手を差し伸べた。
 
        一歩先の私に向かって伸ばされたそれは、触れたくてもできないもどかしさを示すよう、
 
        微かに震えていて。
 
        「ごめん、一目惚れを説明するなんて無理だよな。きっとお前が笑ったあの瞬間、恋に落
 
         ちたんだ。理由なんて後から付けるもんでさ、ただ好き、だ」
 
        ためらうのは、あまりに長い時間を無駄にしてしまったせいなんだろうか。
 
        それとも、守るものができてしまったせい?
 
        「私、1人じゃないんだよ?恋愛を悠長にしてる暇なんてない」
 
        せり出した腹部をそっと撫でて、緊張でこわばった彼に問う。
 
        「…予想してなかった訳じゃない。もしかしたらと思ってた」
 
        「困らないの?芸能人にはスキャンダルじゃない」
 
        人気に左右される仕事をしていて、いきなり親になることができる?
 
        「潰れるならそれまでだ。俺にはお前が必要だし、正直子供の存在は嬉しい」
 
        「…なぜ?」
 
        てっきり迷惑だと言われると思ったのに、彼はいたずらに瞳をすがめて見せた。
 
        「繋がるだろ?断られればそれまでの関係が、子供を通して繋がる。確たるものになる」
 
        それは男女が絆を結ぶ尤も単純で、尤も難しい方法なのだと気づく。
 
        決して交わることのない血が、生み出した子によって一つになり親を繋ぐ。
 
        知らないことの方が多い、出会ってから今までまともに会話をしたのは今日が始めて。
 
        不安はあるけれど、この手を取ってみたい。強がって見せても縋る誰かは欲しいのだし、
 
        微かな記憶だけを頼りに子供を産みたいと思うほど、優しい瞳を忘れられなかったのは事
 
        実なのだから。
 
        踏み出す勇気を全身からかき集めている、そのためらいを後押ししたのは力強い一蹴りだ
 
        った。
 
        「あ…」
 
        「どうした?」
 
        体の内側からジワリと響く痛みに眉根を寄せると、ためらいがちに指が肩を支える。
 
        「蹴られちゃった…」
 
        グズグズするなと催促するように、時をおいてまた小さな足が私を急かして。
 
        「…触っても、いいか?」
 
        頷いて手を取ると、衝撃を生み出している場所に導いて置いた。
 
        「エイリアンみたいでしょ?」
 
        薄い皮を通して、別の誰かが息づいている。
 
        驚きに輝く青い目を覗くと、初めて見る片桐薫の笑顔があった。
 
        ああ、そうね。恋に落ちるのに理由なんていらないんだわ。
 
        一瞬だもの、何気ない日常の一コマに恋愛の種は芽吹くのよ。
 
        「私とこの子、セットでもらってくれる?」
 
        問いかければ、腕の中に閉じこめられて。
 
        「俺の方こそ、お前にもらって欲しいよ。…返品は無しだぜ?」
 
        手に入れたばかりの幸せは、温かく、熱い。
 
 
 
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