21.side純太      
 
 
         学校中が浮き足立っていた学園祭が終わり、すぐにも来る期末に向けてピリピリとした
 
         空気がそこかしこを満たしていた。
 
         受験に本腰を入れ始めた3年だけじゃない、1,2年生だって長い2学期のテスト範囲
 
         に四苦八苦し、もちろん問題を作成する教師だって頭を悩ませている。去年と被らない
 
         問題を、受験内容に即した問題をと必死なのだ。
 
         −俺以外は、みんな−
 
         「…んせい、森山先生!」
 
         ヒステリックな呼び声に、ようやく意識が現実を向いた。
 
         ぼんやり眺めていた中庭から薄曇りの室内に視線を戻すと、少女が数人ノート片手に製
 
         造され続ける煙を手で払っている。
 
         ムダなことをと考えながら決してそれを顔には出さず、俺は小さく謝って灰皿にタバコ
 
         を押しつけた。
 
         『わりぃ…』
 
         一瞬のデジャヴ。この場所で呟いたきっかけの言葉。堰を切ったように溢れる気持ち。
 
         それらの幻想を嘲笑と共に振り払うと、俺は群がる生徒共と又、変わらぬ日常を過ごす。
 
 
 
         sideボタン
 
         泣いても叫んでも夜は明けるし、意味もなく学校は休みになったりしない。
 
         私一人のために数学の担任が替わったりしないのと一緒。人間社会の不文律は結構ハー
 
         ドで、か弱い乙女には辛い限りだ…と呟いてみたり。
 
         「マジメにやらないと、一生バカなままだと思うけど」
 
         参考書片手ににっこり笑った青くんは、遠慮無く言葉の暴力で私の呼吸を止める。
 
         「やる気のない生徒に無駄な時間を割くくらいなら、アスカと抱き合っていたんだけど
 
          ね、僕は」
 
         そうして盛大なため息を吐くと、参考書をポンと私の頭に載せた。
 
         「もうやめようか、今日は」
 
         1時間かけて、予定の半分もこなしていないんじゃ、匙も投げられるわよね。忙しいの
 
         わかってて、仕事帰りに押しかけた挙げ句上の空なんだもん。
 
         申し訳なくて、返す言葉もない…。
 
         「ご、めん…」
 
         「じゃ、ボタン。私と一緒に帰りましょ」
 
         謝罪の言葉に重なったのは、ティーセット片手に現れたアスカちゃんの柔らかな声。
 
         にっこり笑って、驚いた青くんにトレーを押しつけると散らかった勉強道具を手際よく
 
         カバンに詰め込んでいく。
 
         背後にゆらりと怒りのオーラが見えるのは、き、気のせい、だよね…?えっと、青くん
 
         の顔がちょびっと白く見えるのも、きっと、ね?
 
         「…アスカ?」
 
         「イジワル言うあーちゃんなんて、キライ」
 
         そっと探りを入れた彼には、容赦ない拒絶の言葉が余程痛かったみたい。
 
         オロオロ立ち上がって、すぐさまフォローに寄ってきたから。
 
         「そんなつもりじゃなかったんだよ、ただちょっとカツを入れようと…」
 
         「嘘!あーちゃんの声、本気だったもん。ボタンは失恋したばっかで、辛いんだよ?優
 
          しくしてあげてね、大抵のことは大目に見てね、ってあんなにお願いしたのに、ヒド
 
          イ!」
 
         アスカちゃんを知ってる私は、とっても複雑な思いでぽろぽろ落ちる涙を見ていた。い
 
         つも元気で、ハルカや私を励ましてくれるへこたれないお姉ちゃんなのに、ダンナ様の
 
         前では簡単に泣いちゃうんだね。
 
         青くんもそう。私たちには格好良くて、大人な姿しか見せないくせに、アスカちゃんが
 
         怒ったり泣いたりしただけでポーカーフェイスが崩れて、ちょっと情けない普通の男の
 
         人に見える。
 
         「泣かないで、アスカ。ごめんね。ボタンが数学できるようになるまで、イジワル言わ
 
          ない、面倒見るって約束するから」
 
         頬を落ちる涙を拭いながら、青くんはたくさんのキスを落とす。髪にも、額にも、唇に
 
         も。期せずして傍観者になってしまった私の存在などすっかり忘れて、何度も、アスカ
 
         ちゃんが泣きやむまでずっと。
 
         「…ホント?」
 
         「ホント。誰に嘘をついても、アスカにだけはつかない。知ってるよね?」
 
         「うん」
 
         当てられっぱなしで、呆れちゃうくらい甘々な夫婦だけど羨ましいな。
 
         全然忘れられない先生の顔がチラリと脳裏を掠めて、あの人とこんな風になることはで
 
         きなかったんだという事実が胸を刺す。
 
 
 
         side純太
 
         年末年始に目白押しの行事も、短い3学期もあっつー間に終わって、又春が来る。
 
         週4回の授業で顔を合わせた星野とは、あれ以来一度も話す機会がなかった。個別指導
 
         をやめた後、急に数学と物理の成績を上げだした彼女。周囲の何も知らない連中は口々
 
         に俺を褒めたが、アレは本人の努力が生んだ結果だ。俺はアイツの数学嫌いを直すこと
 
         もできず、消えない傷を付けただけなんだから−。
 
         舞い散る桜をかいくぐって登校する生徒達と、軽口混じりの挨拶を交わす。
 
         新学期、新入生、新生活、やたら新しいを連呼したって、教師の生活は普段通り変わり
 
         ゃしねえ。朝っぱらからぼーっと校門に立って、役に立つやら立たないやらの風紀チェ
 
         ックと挨拶運動。
 
         くだらねぇ…と一人ゴチながら、単調な生活が俺の中から風化させた記憶を振り返る。
 
         自分もあっち側にいた頃惚れた女は、ちゃんと思い出になった。そりゃあキレイで、楽
 
         しい思い出に。
 
         忘れるんじゃなく、引き出しにしまうんだと納得できればそれは存外簡単なことだ。だ
 
         って、どう足掻いても過去は返らず、人の気持ちは動かない。いや、例え今早希ちゃん
 
         が俺のところに来てくれても、それは全く知らない別の女と初めから恋をやり直すこと
 
         になるだろう。時間てのは残酷なまでにシビアだからな。会えない間に、あの子はすっ
 
         かり知らない顔をしてたから。
 
         「おーす、急げよ〜」
 
         先輩教師達に眉をひそめられる適当な声かけを続けながら、アイツも…星野もそうなん
 
         だろうなと、ふと思った。
 
         辛い恋をした半年前のことなんてとうに忘れて、きっと移りゆく日々を楽しみ始めてる
 
         はずだと。
 
         「おい、来たぜ」
 
         「マジ?どこよ」
 
         愚にも付かない考えが途切れたのは、振り返った男子生徒が漏らした呟きを拾ってしま
 
         ったからだ。連中が興味を持つ対象なんてそう多くはない。それも声を弾ませて顔を輝
 
         かせているこの場面なら、間違いなく女子生徒のことだろう。
 
         さて、今年はそんな豊作だったか?たいしたの、いなかった気がすんだけどな。
 
         釣られて視線を泳がせた先には、見慣れた顔が二つ。
 
         相変わらず表情に乏しい人形みたいなのと、ちょいと日本人離れした容姿に柔らかな笑
 
         みを浮かべた−2人の星野。
 
         「ハルカちゃんグラビアとかやんねえのかな?すっげ、スタイルいいのに」
 
         「ムリじゃん。カレシが仕事選んでるっつってたもんよ。それよりボタンの方はフリー
 
          なんだろ?アレ落とした方が早くね?」
 
         「あー、警戒心なさそうだし、ちょっと優しくすれば簡単にやれそうだよな」
 
         「おーまーえーらー」
 
         聞かなかったフリしたらいいのは、わかってたんだけどな。気づいたら、奴らにのし掛
 
         かってた。体重かけて、耳元で低い脅しをかける。
 
         「俺、仮にも教師だぜ?落とすとかやるとか、聞こえよがしに言ってんなよ。松本さん
 
          にチクちゃうぞ?」
 
         教師歴20年、空手有段者で今時珍しいほど生徒に厳しい風紀の先生は、恐いモノなし
 
         のガキ共にも充分すぎる脅威となる、らしい。
 
         「勘弁してよ、センセ。あの人本気でオソロシーんだからさ」
 
         「そうそ。家のママは息子のケガくらいじゃセンセ責めたりしねえんだよ。俺等、タコ
 
          殴り決定じゃん」
 
         途端、弱気になって校舎に逃げ去った後ろ姿を見送りながら、何故か満足げに微笑んだ
 
         自分に眉をしかめた。
 
         なんだ、この感情…なんでほっとしてんだよ、俺。
 
         当の本人達はこっちのことなんてお構いなしで、玄関に消えてったてのに。
 
 
 
         sideボタン
 
         すっかり定着してしまった癖は、卒業するまで直らないんだろうな。
 
         どこにいても先生を捜してる。どんな場所でも、いつも。1年も経つのに。
 
         また巡ってきた学園祭を、今度は実行委員長と言う立場で忙しく過ごしながら、未練が
 
         ましい自分にため息を送った。
 
         しっかりしようよ、一度きりしかない高校生活がもう、残り少ないんだから。
 
         重い足をいやいや引きずって、資料探しに訪れた旧校舎の角部屋で沈む夕日に目をこら
 
         す。
 
         このままさっぼっちゃおうかな、今日は。久々にダークな思い出に苛まれちゃってるし、
 
         休みナシで遅くまで引っ張り回された体は限界だと悲鳴を上げてるし。委員長は夕日が
 
         染みるので、旅に出ます…なんて言い訳は通じない?
 
         哀愁漂わせて、埃で曇ったガラスに張り付いていた私は、背後で勢いよく開いた扉に心
 
         底、肝を冷やした。
 
         心臓バクバクしてる…誰よ!
 
         「あ、れ…?池上君」
 
         怒り混じりのキツイ視線は、侵入者の正体を見極めてにわかに緩む。
 
         手が離せないからと私にここまで資料を取りに来させた本人が、何故かいる。普段温厚
 
         で笑みを絶やさないと有名な面に、後退りたくなる思い詰めた表情を覗かせて。
 
         「どうしたの…?生徒会の方は、終わった?」
 
         つっ立ったまま口を開かない彼は、とっても不審で不気味に恐い。だから殊更陽気に問
 
         い掛けつつ、当然ながら退路を探った。
 
         入り口は…一つなんだ。どこのバカよ、棚で出入り口潰したのは!…いやいや、過去の
 
         誰かに怒りをぶつけていても現状に光りが射すワケじゃない。問題は所狭しと並んだ棚
 
         が織りなす迷路並の小道を、どう走れば彼を避けて逃げ出せるか、そこよ、そこ。
 
         じっと、熱っぽい瞳で見つめてくる彼を危険人物と認定したら、一刻も早くここを立ち
 
         去るべき!
 
         「そんなの、ないよ…全部ボタンちゃんをここへ招待するための嘘だから」
 
         そして、カラカラと軽快な音をさせた引き戸は、閉ざされた。
 
         ニヤリと笑わないで!小走りに近寄らないで!!
 
         窓と棚の隙間は、30センチ程度ある。カニのようにそこをすり抜けて隣の通路に…抜
 
         ける前に軋むほどの力で手首を捕らわれていた。
 
         「ヤダ!放して!大声あげるわよ!!」
 
         「どうぞ。ここで叫んでも、誰にも聞こえないけどね」
 
         耳障りな笑い声を上げて私を引き寄せた池上君は、加減せず抱きしめてくる。肺が潰さ
 
         れてうまく息ができない。痛みと苦しさで、涙が滲む。
 
         「僕はずっと君が好きだったんだ。他の子よりずっとボタンちゃんに優しくしてただろ?
 
          逃げるなんて許さないよ」
 
         バカ言ってるんじゃないわ!ここで逃げないでいつ逃げるのよ!あんたの優しさなんて
 
         いらない!放せ〜!
 
         と、言えないのが辛い。声を出せないことが、こんなに恐いってことも知らなかった。
 
         「さあ、僕を好きだって、言って?」
 
         不意に解放されて、まだ肩は捕まれたままだったけれど、自由になった肺が本能に従っ
 
         て酸素を貪った後、出てきた言葉はただ一つ。
 
         「せんせい!!…先生、先生、先生」
 
         好きでもない人に触られるのはイヤ。叶わなかった恋だけど、変わらず心にいるのは一
 
         人だけだから。
 
         届かないとわかっても、その名を呼んだ。
 
         「触んな!!」
 
         池上君が目の前から消えても、飛び込んできた誰かに抱きしめられても、気づかず、呼
 
         んでいた。
 
 
 
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