22.side純太      
 
 
         開いた扉に顔をしかめた。
 
         こんな場所に来るのは良からぬ目的があるか、古すぎる資料を漁るためかで、誰も彼も
 
         くそ忙しい今の時期の訪問なら間違いなく前者だ。
 
         俺もよく使ったからな、いかがわしいことするために。
 
         覗き趣味はねえし、一人の時間てヤツも充分堪能したんだから、来訪者に場所を明け渡
 
         すかと気配のする先に視線を送って、情けなくも固まった。
 
         星野ボタン…。
 
         教科担任も外れ、1年を受け持つことになってからは校内で姿を見かけることさえ希に
 
         なった少女が、曇った窓から夕日を眺めている。
 
         久しぶりにじっくり拝んだ横顔は幾分幼さが抜け、憂いを含んでいるように見えた。
 
         あの日からずっと消えなかった残像が、僅かな修正を経て実体になったのは喜ぶべきこ
 
         となんだろうか。俺はまた早希ちゃんと同じように、彼女を止まった時間の檻に閉じこ
 
         めていたんだな。愛しいと思う、密やかな感情と共に。
 
         流れ落ちていく過去の恋とは対照的に、膨れ満ちていく新たな恋が自分を蝕んでると気
 
         づいたのはいつだったろう。
 
         タバコに火をつけるとき、空のカップを眺めた瞬間、テレビから溢れる陽気な笑い声、
 
         頬を伝う静かな涙。
 
         どの時にも彼女はいて、どの場所にも彼女はいない。
 
         俺が捨てた恋は、俺が気づかなかった恋。
 
         会わずにいれば募るのが恋心だと、かつて彼女を笑った自分が滑稽だ。
 
         一途な想いに答えるだけで、渇望し続けたただ一人の女が手に入ったのに。
 
         全ては遅きに失したんだと、新たな人物の登場が教えている。
 
         確か今年の会長で、教師の信頼も厚い男だ。年も立場もアイツに似合いで、情けない数
 
         学教師を相手にするより余程彼女のためになるだろう。
 
         静寂に良く響く柔らかな声にジクリと痛む心臓を無視して、俺は秘密の出入り口を目指
 
         した。緊急避難用に棚を数段外し、下の資料を抜き出した先にある扉から外に抜け出せ
 
         るのだ。
 
         わざわざ新しい恋をしているのだと、見せつけて貰わなくともきっちり諦めるさ。
 
         自嘲して伸ばした指が止まったのは、悲鳴じみた叫びが聞こえたから。
 
         「ヤダ!放して!大声あげるわよ!!」
 
         もしや、と低い耳鳴りがした。
 
         「どうぞ。ここで叫んでも、誰にも聞こえないけどね」
 
         薄気味悪い甘さを纏った声に、立ち上がり教室の反対側を、奴らがいる方を目指す。
 
         邪魔な棚を蹴倒せたら、簡単に駆けつけることができるのにこれでは隙間に体を滑り込
 
         ますことさえ難しい。
 
         「僕はずっと君が好きだったんだ。他の子よりずっとボタンちゃんに優しくしてただろ?
 
          逃げるなんて許さないよ」
 
         そんな独りよがりな理由で、その子に触れるんじゃない!恋は、一人の感情だけでする
 
         もんじゃないんだぞ!!
 
         彼女の声が聞こえないことが恐かった。一体今どんな風なのか、視界の塞がれた現状で
 
         は、確認することもできない。
 
         「さあ、僕を好きだって、言って?」
 
         最後の棚をやり過ごした先に男の背中が、陰に隠れて崩れ落ちそうな少女が見える。
 
         「せんせい!!…先生、先生、先生」
 
         絞り出した叫びの後、嗚咽と共に繰り返し繰り返し、アイツが呼んでいるのは…俺だ。
 
         「触んな!!」
 
         襟首を掴んで強引に引きはがすと、震える体を抱きしめた。呆然と見上げてくるバカを
 
         殴ってやりたい衝動を抑え込み、ぎゅっと目を閉じたまま俺を呼び続ける星野に囁く。
 
         「落ち着け、ここにいる。俺は、ここにいる」
 
         「ヤダ…っ先生、先生…」
 
         「目を開けろよ、星野…ボタン。俺を、見ろ」
 
         ゆっくり体を離して目蓋に微か触れると、恐々と色素の薄い瞳が見開かれた。
 
 
 
         sideボタン
 
         絶対聞こえないはずの声がして、でも聞き違いなんかじゃないと信じたくて、目を開け
 
         る。
 
         「…大丈夫か?」
 
         ぼんやり霞がかかった向こう側で、心配そうに見つめてくるのは間違いじゃなく…
 
         「せん、せい…」
 
         どうして、とか、だめなのに、とか、もうイロイロ全部どうでも良くなってしまうほど
 
         の安心が私を満たす。
 
         「ああ…何も、されてないか?」
 
         聞きたかったの、耳障りのいい先生の声。
 
         「うん、うん、平気…」
 
         「そっか、安心した」
 
         見たかったの、ふわって笑うその顔が。
 
         何度言ってもきちんと剃らないヒゲは最後に会ったときと同じ。ワックスで格好良く決
 
         めてる髪も、教師のくせに雑誌モデルみたいなジャケットもみんな、変わらない先生。
 
         「ちょっと、待っとけ」
 
         くしゃっと髪をかき混ぜて前を向いた先生は、床に倒れたままズルズルと出口へ移動し
 
         ていた池上君の胸元を掴むと軽々とつるし上げる。
 
         「おい、我を通すために力づくって、正しいんか?」
 
         低く唸るような問い掛けに、池上君は引きつった表情のまま返事をすることができない
 
         ようだった。
 
         「女の扱い知らんにしても、これあんまりじゃねえ?立派な犯罪だぞ」
 
         「ま、まだ!まだ何もしてない!!」
 
         「ああ?!寝ぼけてんのか、てめえ!許可無く触れば強制わいせつ罪だ!」
 
         「ダメ!!」
 
         すごい勢いで振り上げられた拳に、飛びついて間に合うのかどうかわからなかったけど
 
         こんな人のために先生の立場を悪くしたくないって必死だった。
 
         ぶら下がるように腕にしがみついて、すんでの所で暴力沙汰だけは回避。
 
         「ボタン」
 
         「先生が生徒殴ったら、ダメでしょ!」
 
         放せと暗に告げる瞳に激しく首を振って、この騒ぎで緩んだ拘束から抜け落ちた池上君
 
         に早く行ってと促した。
 
         「誰にも言わないから。先生にもそう頼んでおくから」
 
         その確認をとると、彼はまろびながら教室を飛び出していく。
 
         「待て!」
 
         「もういいってば!!」
 
         ほっとくと追い掛けて行っちゃいそうな先生の腰に後ろから張り付いて、私は全体重を
 
         かけた。未遂だったんだから、いいの。先生に助けてもらえたから…。
 
         「大丈夫だから、これ以上はやめて…」
 
         逆にね、得しちゃったかも知れないわ。こんな風に話すことも、まして抱きしめてもら
 
         えるなんて夢でもなきゃあり得ないと思ってたから。
 
         先生の体温を感じられただけで、幸せ、なの。
 
         「…きっちりシメとかねえと、ああいうのはまたやるぞ?」
 
         やんわり私の腕を解いて、先生が振り返る。
 
         ああ、ここまで、ね。これでまた先生は遠い人。触れることはできない…。
 
         「そう、かな?…もうしないと思うけど」
 
         苦しいのに笑顔を作るのは、得意になったしまったから。安心させようと微笑む。
 
         見上げた先で先生が、困った顔をするとは思わずに。
 
         「強がんなよ…」
 
         引き寄せられたのは決して届かないと思っていた腕の中で、頬にかかる吐息は震えるほ
 
         どに熱い。
 
         期待してしまいそうなほどに…とても。
 
         「せんせ…」
 
         「さっきも、俺を呼んだな」
 
         髪を撫でていた指が顎を捕らえ、出逢った瞳に小さく頷く。
 
         「今さら、だけどな。お前が…好きだ」
 
         鼓膜を揺らした音が意味を持つのに、おかしくなりそうなほど時間がかかる。
 
         …スキダ…
 
         先生は、そう言ったの?ホントに?聞き違いじゃない?
 
         「なあ、答えをくれよ…」
 
         触れるほど近くで懇願されても、信じられないままの私は返事ができずにいた。
 
         ジワリと涙が浮かぶほど、見つめ続けるので精一杯。
 
         「沈黙は肯定と見なすぞ。…目、閉じろ」
 
         だからキスは、強引で甘い。
 
 
 
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