20.sideボタン     
 
 
         辿り着いたのは当然と言うか、他になかったというか、数学準備室。
 
         通い慣れたそこに一歩入って、ニコチンと埃の入り交じった匂いに胸が苦しくなった。
 
         幸せで、辛い思い出のある部屋。
 
         「取り敢えず、座れ?」
 
         荷物のように抱えていた忍君(自己紹介を受けたの)を、書類を掻き分けた机に降ろし
 
         て私にはいつもの椅子を勧める。
 
         で、先生は、胸ポケットからタバコを出して火を…つけようとして蹴られた。
 
         私に、じゃないわよ?椅子の上のちっちゃな紳士に、だから。
 
         「何すんだよ!」
 
         大人げない叫びは、当然意に介されることもなく。
 
         「女性と子供の前で煙草を吸う男は、常識がない。これ、近衛家の家訓なんだよ」
 
         「…ご立派なことで…」
 
         得意気な忍君に不満げに顔をしかめて見せたけど、先生は吸いかけのタバコを箱に戻し
 
         てそのまま机に放った。
 
         相手の方が正当であれば、彼は素直に従うんだよね。年下でも年上でも関係ない、真っ
 
         直ぐな倫理観は、私が先生を好きな理由の一つでもある。
 
         「あれないとなぁ、間がもたねえんだよ…便利なツールなんだけどな」
 
         ガリガリと乱暴に髪をかき回して一呼吸つくと、上げた視線に私を捉えバツが悪そうに
 
         苦笑い。
 
         「申し開きと懺悔、聞くか?あんまおもしろくねえけど…アテッ!」
 
         もう一回、忍君の見事な足技が決まった。
 
         「ちゃんと謝らないと、ダメ」
 
         むうっと睨み合って、もちろん勝てないの。3歳児に、形無しなんだから。
 
         「大人はさ、特に男はさ、いらんメンツっての?すっげ、大事だったりすんのよ?」
 
         「ごめんなさい」
 
         無用の言い訳に返るのは、非常の通達。
 
         「いや、だから…」
 
         「ご・め・ん・な・さ・い」
 
         上手く言葉が出てこない時点で、諦めたらいいのに。
 
         「………ごめんなさい…」
 
         「僕に、じゃないでしょ」
 
         「お前…父ちゃんそっくりの口調な」
 
         最後の一言はどうやら忍君の怒りのツボをゲシゲシ押してしまったようで、先生は再び
 
         太股を蹴られて悶絶してる。さっきまでの比じゃ、なかったのねぇ。すっごい痛そうよ、
 
         体くねらせてるから。
 
         「お父さんと一緒にするのだけは、絶対やめて」
 
         絶対をひどく強調するけど、いやがるほどダメな人には見えなかったよ、忍君のお父さ
 
         ん。ありすちゃんに(これもさっき教えて貰った)伝言を持たせて私を引き留めてくれ
 
         ようとしたし、奥さんを見る目もすごく優しかったじゃない。
 
         でも、息子である彼曰く、
 
         「あんなダメな人と同じって言われるのは、イヤ。僕は早希ちゃんもありすも泣かせた
 
          りしない!」
 
         らしいの。
 
         そうなの…とてもそうは見えなかったけど、人って見かけによらないんだねぇ。そう言
 
         えば家だってそうだもんね。クールを売りにしてるお父さんが、お母さんは元より緑お
 
         じさん達に頭が上がらないし、子供からはないがしろ通り越して無視されること度々で、
 
         いっつも部屋の隅でいじけてる。
 
         裏の顔って誰にでもあって、忍君のお父さんは人に見えないところでお母さんを泣かせ
 
         ているのか…うん、また一つ勉強になった。
 
         納得って一人頷いていると小さく噴き出す声がして、目を上げた先で先生が必死に笑い
 
         をかみ殺してて。
 
         何?私、なんかおかしい?
 
         「おっ前ねぇ〜たった一度のことをいつまでも言ってやるなよ。見ろ、星野が信じちま
 
          っただろ?」
 
         え、信じちゃダメ…?一度だけ?ええ??
 
         嘘だったのかな、とか思い始めて混乱してると口をへの字に曲げてる忍君と対照的に、
 
         清々しいまでの笑顔をした先生が私の髪をくしゃりと撫でた。
 
         「星野もさ、鵜呑みにすんなよ。顔見ればわかんだろ?早希ちゃんにべた惚れなんだ、
 
          あのダンナは」
 
         ひねくれてるから誤解されやすいけどな、てフォローまで入れてちゃって。
 
         やせ我慢?先生が好きだった人の、ダンナさんでしょ?ずっと好きで、忘れられなくて、
 
         今でもひっそり恋心温めちゃってる人が選んだ相手。
 
         私なら、きっと妬んでる。醜いなって、自分のこと嫌いになっても止められないほど、
 
         自分じゃないその人が妬ましくて、ならない。
 
         優しい気持ちになんてなれなくて、認められる潔さも持ち合わせてないから、先生の態
 
         度も表情も何もかも納得できなくて、俯く。
 
         どうして、と問いつめてしまいそうだから、強く唇を噛んで。
 
         「…切れるぞ、そんなにすると」
 
         口元に伸ばされた指が触れる直前で止まって、先生の心を写すようぎゅっと握られて離
 
         れた。
 
         触れてはいけないモノ、触れてはいけないキモチ。
 
         私はこの人にとって、遠くなければならい存在だから。理解したはずなのに、まだ口を
 
         開けたままの傷は容易に血を流す。
 
         「わりぃ…」
 
         そして、最悪のタイミングで謝罪を口にするんだ、先生は。
 
         「…なにが?…触れないこと?私を好きじゃないこと?元には戻れないこと?」
 
         流れるように零れでる言葉とは裏腹に、足はドアに向かって一歩後退した。
 
         見上げた顔がゆっくり凍り付いていくのが、恐かったから。細い糸で繋がっていた微か
 
         な希望を自分で切ってしまった後、この部屋にいられる自信がなかったから。
 
         「知ってるよ、生徒はどこまでも生徒なんでしょ?」
 
         泣かない。あの日の彼女のように泣く資格が、私にはないもん。卑怯に先生を追いつめ
 
         て、想いを全部吐き出して楽になろうなんて勝手を通すんだから。辛いんだと主張する
 
         権利なんか、ない。
 
         「聞いてたのか?」
 
         一段低くなった声が責める調子を含んでいるのに気づいて、心臓が竦んだ。
 
         …バカみたい。この期に及んで嫌われたと怯えるなんて。そうするつもりで、喋り続け
 
         るんでしょ?
 
         小さく頷いて肯定した後、弱気をあざ笑うよう唇を歪め、色を無くした先生の顔を見て
 
         私は隠していた気持ちを解き放つ。
 
         どうせなら全部、一つも取り残さずに伝えるために。
 
         「聞いてた。見てた。…あの時、先生が好きだって気づいて、でも生徒は恋愛対象にな
 
          らないし、好きな人は別にいるし、速攻失恋。でもね、諦め悪く好きでいようと思っ
 
          てたの。ずっと見てればいつかチャンスをつかまえられるかも知れないって。なのに
 
          忘れられない人は現れちゃうし、暗にふられちゃうしもうサイテー。その上あのタイ
 
          ミングで謝るんだから、恨みでもあるの?!」
 
         「そんなつもりじゃ…」
 
         「なら!どんなつもりよ。遠回しにあんな行動取らなくても、生徒なんか恋愛対象にな
 
          らないって正面切って言えばいいのよ!先生を好きな私とはいられない、これで充分」
 
         随分、単純明快な答えだったんだなぁ、口に出してみると。
 
         困った顔で言葉を選んでる先生が、少しだけ可哀想になるほど私の心は軽くなった。失
 
         恋した苦しさが消えたわけでも、勢いだけで心情を吐露したことへの後悔がないわけで
 
         もないけど、普通でいよう、先生見ても動揺しないでいようって呪文を呟いていた昨日
 
         までに比べたらよっぽどマシ。妙にすっきりしてる。
 
         だから、
 
         「…星野…」
 
         そう言ったまま返事に窮してしまった先生を、これ以上困らせたらいけないと素直に思
 
         えたんだ。
 
         恋は人をワガママにするね。
 
         こんなに好きなのにどうして私じゃダメなの?教師と生徒とかそんなの気にしないで私
 
         自身を見てよ。
 
         どれ程勝手な言い分を正当化しようとしてるのか、相手の立場になってみればすぐわか
 
         るのに。好きになれない相手と一緒にいることはできないし、子供と、ましてや生徒と
 
         恋愛しようなんて先生がそうそういるわけないのよ。特にプライベートで相手に不自由
 
         してない人は尚更。
 
         「ごめんなさい、無茶言って。先生は言葉を選んだり、遠回しに私が傷つかない方法を
 
          考えてくれてたのに。やぱり子供って直情的でダメだよね」
 
         言い逃げしようって気持ちは、失せてしまった。そんなことしたらまた、先生は辛くな
 
         るから。きちんと終わらせなきゃ、工藤さんが言ったみたいに。誰にも傷を残さないよ
 
         うに。
 
         だから、無理に笑ったりしない。平気なフリして健気を演出してもそれは先生を苦しま
 
         せる材料にしかならないもん。
 
         「俺は…俺も、ガキだよ。お前を傷つけず、わからせてやれれば良かったんだけどな」
 
         自嘲に顔を曇らせて、でも決して視線は外さず先生はごめんと、やっと言えたと肩の力
 
         を抜いた。
 
         「星野とだけじゃなく、恋は誰ともできない。何年も前のあの時から、俺の時間は止ま
 
          ったままで、女は早希ちゃん一人だから、さ」
 
         うん、わかったよ。あの人の前で笑う姿を見たから。
 
         「会えずにいた間、彼女が止まらずにいたことに気づくまで、同じ気持ちで居続けた」
 
         ふっと先生が目を伏せる。横顔からはどこか遠い過去が流れ出し、サラサラ掴めない記
 
         憶をゆっくり消している、そんな風に見えた。
 
         「こいつが生意気に喋るほど、早希ちゃんとアイツが揺るぎない笑顔を見せるほど、変
 
          わったんだな実感して、好きだって想いをぶつける相手がもうどこにもいないんだっ
 
          て気づいて…やっと恋が、終わった」
 
         差し出された先生の腕に大人しく捕まった忍君が、小さな手をいっぱいに広げて乱れた
 
         グレイの髪を撫でる。何度も何度も、あやす優しさで繰り返して、押さえ込まれた感情
 
         を労るように、撫でる。
 
         「…お前と同じだな。俺も玉砕した」
 
         切ないね、苦しいね、痛いね。
 
         私も先生も、全身が暗く淀んでいる気がするもん。交わされる視線からは、負の感情が
 
         混ざり合う。
 
         「………忘却の水、とかあればいいよね。ほら物語りに出てきそうじゃない?飲んだら
 
          全部忘れられるの」
 
         「ばっか。そんなん飲んだ後も、同じ相手に恋したらすっげー不毛な永久運動だろうが」
 
         きっとそうなるとお互いに確信できるから、ちょっぴり笑った。
 
         まだ好き。たぶん、忘れることなんかできない。でも、立ち止まっちゃいけない。だか
 
         ら…
 
         「バイバイ、先生」
 
         あっけないほど軽く開く、そのドアを開けて。
 
         「おう。数学、ちっとは頑張れよ」
 
         そっと手を振ったら、もうこの部屋へは戻らない。二度と。
 
         最後は、笑顔で、別れよう。
 
 
 
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