19.sideボタン     
 
 
         「ハルカ、行こう…」
 
         「どこへ?え?」
 
         そんなの、ここじゃなければどこでもいい。先生とあの人がいないのなら、ホントどこ
 
         でも。
 
         だって、気づいちゃったんだもん。忘れられない人は、彼女なんだって。悲しみなのか
 
         喜びなのか、不思議な色を宿して揺れる瞳を見てしまえば、一目瞭然の真実。
 
         冷たくあしらわれても、他の生徒と同じ存在だと言外に匂わされても我慢することはで
 
         きるけど、これはダメよ。
 
         きれいなダンナさんとの間に可愛すぎる子供を二人も作った女性に、未だ心が捕らわれ
 
         ている様を見て、平然となんかしていられない。
 
         もう、見たくない。
 
         事態が把握し切れてないハルカを促して、踵を返した私を引き留めたのは小さな手。
 
         いつの間に回り込んだのか、必死に背伸びをしてエプロンの端を握っている、少女。
 
         「ダメよ、お姉ちゃん」
 
         愛らしい顔を彼女にできる限りの厳しさでしかめて、ダメッと繰り返す。
 
         「あのね、お父さんが行っちゃダメって言ってきてって。あのお兄ちゃんにごめんなさ
 
          いさせるから、いて下さいって」
 
         ろれつの怪しい口調でそれでも必死に伝言を伝えた少女は、得意気に胸を張ると件の『お
 
         父さん』と視線の交える。それを追った私にもかの人は微笑んで、奥さんと冗談交じり
 
         のやり取りを楽しむ先生に注意を戻した。
 
         何が何やら、よくわかんないんだけど…。
 
         同じ疑問は隣のハルカも抱いたようで、お互い顔を見合わせて黙り込む。けれどちっち
 
         ゃな口は休むことはなく、更に続けるのだ。
 
         「泣かしたら、ごめんなさいなの。それでね、男の子は女の子を泣かせちゃいけないの
 
          よ?」
 
         何故かその言葉の後半は、近づいてきていた工藤さんに向けられていて、探る幼い表情
 
         に合わせるよう、彼がかがみ込んで放つキラースマイル。
 
         「俺は、泣かせたりしませんよ。好きな子なら、尚更」
 
         演出で光の粉でも纏ってるんじゃないの?でなければ、後光を背負ったような姿の説明
 
         がつかないわ。
 
         ハルカなんて見る見る真っ赤になっちゃって、鉄壁のポーカーフェイスを誇る従妹が普
 
         通の女の子に見えるんだから、恋って、工藤さんて偉大だわぁ。
 
         感心しきりなのは私だけじゃなかったみたいで、その一言に気を許したのか小さな彼女
 
         も目の前の体に腕を延べて、抱っこをせがんだ。
 
         「お兄ちゃんいい子だから、好き。大ばあちゃまが、女の人を大事にするのは、いい子
 
          よって言ってたもん」
 
         「それは、素敵なお祖母様ですね」
 
         少女と共に体を起こした工藤さんと、はにかんで見つめるハルカって仲の良い親子のよ
 
         うな光景を素直に羨ましいと思うのは自分置かれている状況とあまりに違うからなんだ
 
         ろう。
 
         目の端で先生は、楽しそうに苦しそうに話している。生徒には見せない、心を覗かせた
 
         顔で、ずっと思い続けていた人と。
 
         「謝ってもらうことなんて、何もないよ…」
 
         諦めきれなかったことも、他の女の人を好きになれなかったことも、先生が悪いんじゃ
 
         ない。
 
         目の前の光景を眺めながら、そう思った。
 
         辛かったのは私だけじゃないから、叶わないとわかってそれでも忘れられない人のいる
 
         先生だって、ううん、先生の方が辛かったんじゃないのかな。
 
         だから、もう…
 
         「困らせたくないの。ごめんね」
 
         伝言を持ってきてくれた天使さんには悪いけど、行かなくちゃ。逃げ出さなくちゃ。
 
         「ボタン?」
 
         「お姉ちゃん」
 
         引き留める声は聞こえないふりで、前を目指す。
 
         涙が落ちそうだから。さっきよりずっと痛くて苦しくて、我慢の限界なんてとっくに超
 
         えちゃってるから。急いで、急いで…。
 
         「おーし、そのまま止まんなよ」
 
         「え?!」
 
         抜け出した教室を振り返りもしなかったから、背後から追いついてきた人がいたことな
 
         ど、気づきもしなかった。ましてその人が一番見たくない人だったなんて、反則よ。
 
         「なんでっ!どうしてっ!」
 
         「だから、止まんなっつーの」
 
         問い掛けになんてこたえる気、更々無い先生は驚きで足の止まった私の腕を取って無理
 
         矢理引きずり始めた。
 
         「やっ!待ってよ!」
 
         「待たねえって。すっげ、目立ってんだぞ」
 
         「はぁ?!」
 
         歩幅が合わないせいで猛スピードで流れる視界には、確かに好奇心ありありの顔がいく
 
         つもある…気がする。老若男女、それはもう引きも切らない感じで、ちょっとまずいか
 
         な、なんて思っちゃうくらいだったんだけど…
 
         「センセ!人さらいはまずいぞ!」
 
         「星野はともかく、子供はやばいって」
 
         「俺の子だよ」
 
         囃し立てる男子生徒に返した嘘八百で、衆目を集めているのが自分じゃなく、別の誰か
 
         だって気づく。仰け反るように覗き込んだあっち側、先生の小脇に抱えられ不満そうに
 
         顔をしかめている、ちっちゃな男の子。
 
         「え?あれ?!」
 
         あの子、さっきの女の人子供、だよね?連れて来ちゃったの?嘘!
 
         「何してるの!ホントこれじゃ人さらいだよ!!」
 
         ご両親が心配して追い掛けてきてるから、こんな急いでるの?!
 
         …と、勘ぐって振り返っても、誰もいない。でも、駆け足になってきたスピードも緩ま
 
         ない。一体何がなんだか、わからない。
 
         「さらってねえよ。自分の意志でついてきたんだから。俺がちゃんとお前に謝るか、見
 
          るまで信じねえんだとさ」
 
         「はあ?!何それ。こんな小さな子がそんなこと言うわけないじゃん!」
 
         彼は伝言を伝えてくれた女の子と同じくらいの年だと思うんだよね。見かけから、3,
 
         4歳。言い分けるなら、もっと真実味があること言ったらいいのに…。
 
         疑いの眼差しで指すような視線を送ると、意外に焦ってぶんぶん首を振る仕草が…なん
 
         か、可愛いの。いや、笑ってる場合でも心境でもないんだけどね…うん、でも、
 
         「嘘つき。閻魔様に舌抜かれるんだから」
 
         「閻魔…お前、古いこと知ってんのな…年齢詐称?」
 
         「してるわけないでしょ。ピッチピチでキレイな女子高生に失礼な!」
 
         「自分でキレイ言う奴が、どこにいんだよ」
 
         「ここに」
 
         ほら、なんだか少し前の空気が戻ってきた気がしない?
 
         私が壊して、先生が一線を引いて、楽しくて居心地の良かった関係はもう帰ってこない
 
         んだと思ってた。
 
         教室で先生は遠くて、もちろん久しぶりに会った私も緊張して微妙な雰囲気で。
 
         でも、今は違う。正面から向き合う勇気はまだないけど、涙を引っ込めて微笑むくらい
 
         はできるもん。
 
         「嘘じゃないよ。僕、自分でついてきたの」
 
         それは、この声の主が関係してたりするんだろうか?
 
         小脇に抱えられて窮屈そうに体を捻った彼は、多少おぼつかない、でもはっきり主張を
 
         含んだ口調でそう告げる。穏やかな表情で見下ろす先生に、面白くなさそうに視線を送
 
         りながら。
 
         びっくりするくらい、柔らかな顔、してるね。あの人と話してたときとは別人みたいに、
 
         何か吹っ切れたって風に。大人びた仕草で、ニヤリと口元を歪める少年を楽しむ余裕さ
 
         え伺える。
 
         「俺が謝るの見るんだと。女泣かす、嫌いだっつーんだもんよ。フェミニストだねぇ」
 
         「あなたは信用できないから、ついていくの」
 
         ちゃかしたセリフに、シビアな突っ込み。なかなかどうして、子供だとは侮れない回転
 
         の良さなんだけど…この子の方が年齢詐称?
 
         「ひどいこというじゃねえの。公明正大な人間つかまえて」
 
         「『いい加減』に見えるのって、損だよね」
 
         「…そんな、外見的欠点を責められてもねぇ…」
 
         「大お祖父様は『人間品性が顔に出る』が口癖だよ」
 
         「祖父ちゃん…俺に恨みでも…?」
 
         「ぷっ!」
 
         悪いとは思うけど、我慢できなかったわ。
 
         未だかなりの勢いで走りつつ、お子さまと交わす会話がこれって…すごいと思わない?
 
         先生押されっぱなしなんだもん。負け負け、勝ち目ナシ。
 
         「お前な、笑ってねえで助けろよ」
 
         小さな吹き出しに鋭く反応した声は、聞かなかったことにしておこう。
 
         「イ・ヤ。こんな面白い見せ物、楽しまないなんて手はないもん」
 
         「楽しむなよ、憐れめよ!」
 
         情けない悲鳴に更に笑って、笑って…先生の走る先に目的地がなければいいと思った。
 
         この時間が続くよう、ずっと終わらないように。
 
         そう、変わらなかった日常のあの時間に、2人戻れればいいのに。
 
 
 
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