16.sideハルカ    
 
 
         着替えに少し手間取って慌てて走り出た先に、彼女はいた。
 
         制服のまま見慣れない笑顔を貼り付けて、何故だか電柱に隠れるみたいに立っている。
 
         「…ボタン?」
 
         本人に間違いないとわかっているけど、確認しないではいられない、そんな様子だった
 
         の。
 
         青くんみたいに心の中全部隠すように笑うなんて、変よ。絶対、らしくない。
 
         「なにしてるの?中に入ればいいじゃない」
 
         動こうとしないボタンに駆け寄って声をかけても、ちらりと流された視線はどこか虚ろ
 
         で緩やかに弧を描いた唇も一向に元の形を取り戻さないからわかってしまった。
 
         「何があったの?どうして泣きそうなの」
 
         肩に触れると振り向いた彼女は急に表情を崩して、泣き笑いで問う。
 
         「…聞いて、くれる?」
 
         そんな当たり前のことを聞くから、
 
         「当たり前!」
 
         ぎゅっと抱きしめて、安心させるように髪を撫でた。
 
         声を押し殺して背中を振るわせて、ゆっくりボタンの感情が流れ始める。
 
         ひどい、泣き方。
 
         星野家で唯一、感情を隠すことができない彼女は、いつだって豪快に泣いたものだ。
 
         叫んだり、クッションを殴ったり、その度あたしや秋君が必死で宥めて、いつもはイヤ
 
         ミしか言わない静だって珍しく優しさを見せたりなんかして。
 
         ボタンはいつだって、他人を守るために自分が傷つく。
 
         あたし達みたいに上手にかわしたり、誤魔化したりできないから真っ直ぐぶつかってケ
 
         ガをするんだ。だから、子供みたいに泣きじゃくってストレスを発散しちゃうのに。
 
         今日に限ってどうして感情を殺すの?なにがあったの?
 
         「とにかく、中はいろ?」
 
         家の前でこんな姿を晒すのは本意じゃないだろうと促すのに、ボタンは激しく首を振る。
 
         「だめ…おかあさん、や、お兄ちゃんが、心配…する」
 
         そっか、この時間みんなこっちに来てるもんね。
 
         「じゃ、ボタンの家は?一緒に行くよ?」
 
         「お、とうさんが、いるの、今日」
 
         …ちっ、相変わらず役立たずね、あの人は。なんでこんな時に限って帰ってやがるのよ、
 
         仕事しろ!
 
         と、悪態ついててもなんにもならないわ。さて、どうする?他に…
 
         何とはなしに帰宅を急ぐ人で溢れる往来を見ていると近づく、見慣れた車影。
 
         「ハルカ?どうしたの」
 
         真っ赤なローバーの窓から、待ち合わせていた彼が覗いていた。
 
         いっけない、忘れてたぁ。
 
         「夏来さん…あーえーと、ですねぇ…」
 
         デートは中止して下さいと、視線で訴えてみる。
 
         声に出して言ったら聞きとめたボタンがきっと気にするから、これを見て気づいて、で
 
         きれば黙って立ち去ってくれると非常に助かるんだけど。
 
         贅沢にも何年も連れ添った夫婦みたいなコト考えて、ありがたくももったいなくどうや
 
         らそれは夏来さんにわかってもらえたからびっくり。
 
         彼は、明らかに泣きじゃくってるボタンを心配げに一瞥して、無言で自宅を指さしてま
 
         でくれた。
 
         「ううん…」
 
         ダメなの、諸事情があって家に入れない。
 
         「そう。じゃあ俺のアパートへ来ませんか?散らかってるんだけど、それでよければ」
 
         「え、でも…」
 
         デートをドタキャンした上にそこまでは甘えられないと言い淀んでいたら、車を降りた
 
         彼がそっとあたしの背を押した。
 
         ボタンごと、壊れ物を扱うように優しく車に導いていく。
 
         「あ、の…」
 
         当然成り行きに気づいた彼女が遠慮がちに泣き濡れた顔を上げて、大丈夫だと伝えよう
 
         とするのに夏来さんは笑って見せた。
 
         ボタンの様子に気づかないふりで、イタズラな表情を覗かせて、
 
         「俺はね、いつかハルカをお嫁に下さいって緑さんに言いに行かなきゃいけないんです。
 
          今から君に恩を売るんで、その時は協力してくれますか?」
 
         「あ、はい…もちろん」
 
         びっくりして、ボタンは涙が引っ込んじゃったし、あたしはもうトマトも林檎も目じゃ
 
         ないくらい真っ赤になっちゃって…。
 
         「不意打ちは、やめて下さい」
 
         小声の抗議にドアを開けた彼は楽しそうに、更なる爆弾を投下した。
 
         「それならハルカが慣れるまで毎日言ってあげるね。俺の嫁さんになって下さいって」
 
         …さっきまでの深刻な空気を、返して…。
 
 
 
         促されてベッドに背を預けたあたし達は、どちらからともなく大きく息を吐くと照れ隠
 
         しにクスリと笑う。
 
         車の中でしばらく泣いたボタンは大分落ち着きを取り戻して、重く腫れた目蓋を気にし
 
         ていた。
 
         「あ〜あ、腫れちゃうかな、やっぱ。目もしばしばするし」
 
         「そりゃあ、あれだけ泣いたら腫れるでしょ」
 
         冷やさなきゃ、家に帰っても質問攻めにあうだろうし。
 
         そう思って夏来さんにタオルでも借りようと顔を上げると、見透かしたように保冷剤を
 
         持った彼がキッチンから顔を覗かせる。
 
         「はい、これで冷やして。俺はお茶を買いに行ってくるから」
 
         ふわふわのタオルとセットで渡されたそれを受け取ると、彼は戻ったばかりの部屋を出
 
         るためチャリっと鍵を鳴らした。
 
         気を使ってくれてるんだよ、ね?
 
         家に戻ることを嫌がったボタンは、泣くほど辛い何かを家族には言いたくなかったわけ
 
         で、だから夏来さんは自分のアパートを提供してくれて更には自分が席を外そうとして
 
         いるの。格好良くて気遣いもできる、こんな人がカレシなんて、夢みたいよね、すごい
 
         わよね。
 
         「…ここにいて下さい、工藤さん。一緒に相談に乗ってもらえると嬉しいから。ついで
 
          にこの人の管理もしてもらえると助かります」
 
         ちょっと、イヤそうな顔して押しやるのやめて。ほら、夏来さんだって困って…
 
         「あはは、じゃ、引き取るね」
 
         「え、はい?!」
 
         すっかり出かけることをやめた彼は、ボタンの申し出に従ってひょいっとあたしを抱え
 
         るとテーブルを挟んだ壁際に…捨てた。
 
         誇大表現じゃないのよ、ホントにぽいって捨てたの!下にクッションが無かったらした
 
         たかにお尻を打っちゃうとこよ?!
 
         「ヒドイ!」
 
         泣き崩れるマネをして横目で夏来さんを睨むと、逆にめっと叱られちゃう。
 
         「悲しいことがあったボタンちゃんの前で、妄想してニヤニヤするのは頂けないよ。少
 
          し、反省して下さい」
 
         それはもしや、あたしのカレシって格好いいでしょ〜ってアレが顔に出ちゃったのかし
 
         ら…?う、まずい。やっちゃいけないことを…。
 
         「ごめんね、ボタン」
 
         パンと両手を合わせて拝むと、正面の笑顔はやっぱり少し悲しそうだった。
 
         あたしを責めてるとかそんなんじゃなく、開いた傷口を抱える痛々しさが隠しきれない
 
         そんな風なの。
 
         「…ねえ、恋したの?」
 
         生まれた時からずっと一緒だったけど、こんなボタンをあたしは知らない。
 
         17年、楽しく笑うだけだった顔に拭えない苦悩が浮かんだことなんかなかった。
 
         でも、でもね?たった一つ覚えがあるの、苦しくて切なくて、考えるだけで泣けてくる
 
         そんな感情に。
 
         じっと見つめた彼女は、困ったように微笑んで小さく頷くと、直後、一粒涙をこぼす。
 
         「好きだって気づいたのが今日でね、ずっと好きな人がいるんだって教えてもらったの
 
          も今日。すぐに失恋しちゃったの」
 
         宝石のようにキラキラ零れた雫は、まるでボタンの気持ちのように澄んでいて、脆い。
 
         生まれたての恋の脆弱さを示すように、弾けて消えるそれを留めたくて必死に慰めの言
 
         葉を探すけど、大事な時にあたしの言語中枢は役立たずなの。
 
         お願い、夏来さんボタンを助けて。
 
         伝染した悲しみと自分のふがいなさに潤んだ瞳で隣を見やると、優しく見つめる彼がフ
 
         ワリと笑った。
 
         大丈夫、まかせてって。
 
         「うん、気が済むまでなくといいよ」
 
         置きっぱなしだったタオルを差し出して、夏来さんはゆっくり柔らかな言葉を紡ぐ。
 
         顔を上げたボタンに、トンと胸を指さして、
 
         「外に出ることのできなかった想いも、全部話してしまうといい。閉じこめちゃ、ボタ
 
          ンちゃんの恋が可哀想でしょ?」
 
         問い掛けにあの子が頷くまで、長い時間がかかったように思う。
 
         僅かに首を上下させた後、堰を切ったように声を上げたボタンはタオルに顔を埋めて激
 
         しく泣きじゃくった。
 
         慰めなど必要としない、自分にけじめをつけるための涙をひとしきり流して、もちろん
 
         一緒に泣き始めたあたしも体中の水分が流れちゃうんじゃないかってくらい泣いて。
 
         気づいたらお互いテーブルに突っ伏したまま、ぽつりぽつりとぶつ切りの会話を始めて
 
         いた。
 
         「…学校の人?」
 
         「うん」
 
         「同じ、クラス?」
 
         「ううん」
 
         「…もしかして、森山先生?」
 
         「…そう」
 
         「相手が、悪いわよ」
 
         「ね。安全な人を選んで、恋できたらいいのに」
 
         「みんなそう思ってるわ」
 
         「…ハルカの恋は、安全じゃない」
 
         「片桐薫がいなきゃね」
 
         「ん?片桐さんがどうかした?」
 
         突然乱入した声に、2人揃って飛び起きて顔を見合わせた。
 
         人の気配がなかったからすっかり忘れてたけど、ここって夏来さんの部屋じゃない。
 
         全部聞こえちゃってたのよね、まずかった?まずかったかな?
 
         チラリと目配せしたボタンは平気だと泣きはらした顔で微笑んで、そっちこそまずくな
 
         いのかと身振りで告げる。
 
         …ええそう、まずいかもね。つい、いつもの調子で喋っちゃったもの。名指しで悪感情
 
         を露わにしちゃったわ。
 
         本性、ばれた?
 
         「今更、遅いでしょ」
 
         多量の媚びを含んだ顔で見上げると、ちょっとだけ呆れたお返事。
 
         「ハルカが毒を吐くことは、知ってます。初めて会ったあの日も、撮影中に悪態をつい
 
          ていたの、聞いていたしね」
 
         ………聞かれてたんですか………。
 
         思い切り引きつったあたしは無視で、ボタンに向き直った夏来さんは続ける。
 
         「こんな風に、付き合っていても秘密があって、それ故どこで躓くかわからないのが恋。
 
          危険を冒して手に入れても、安心できる日なんて来ない、そう思いませんか?」
 
         ああ、痛いほど実感を込めて頷けるお言葉です。
 
         好きだって毎日言ってもらっていても、キレイな女の人とお仕事する機会の多い彼に不
 
         安を抱いてしまうことがあるから。
 
         「先生には好きな人がいて、諦めなくちゃいけないんだね?もう、好きでいることもで
 
          きない?」
 
         「ううん、諦めなきゃいけない人なんだって先生は言ってた」
 
         「恋人とか奥さんじゃないの?」
 
         「違うよ」
 
         なによそれ、それじゃそれじゃ、
 
         「泣くことないじゃない!頑張れば、なんとかなるかもしれないのに」
 
         てっきりあたしは森山先生には彼女がいるんだと思っちゃったわ!道ならぬ恋とか、だ
 
         から失恋したのかと思ってたのに!!
 
         「根性なし!その調子じゃ好きだって伝えてもないんでしょ?」
 
         声が尖っちゃうのはもらい泣きまでして目を腫らした自分が可哀想だからよ。まだ可能
 
         性が残ってるのに、早とちりで失恋するなんておバカ。
 
         「…うん」
 
         「潔く玉砕してから泣きなさい!ホント、大げさなんだから」
 
         「人のこと言えるの?あなたも俺から逃げたでしょうに」
 
         夏来さん!一体どっちの味方なのよ?!
 
         口惜しいからいつもはしないキツイ視線を送るって方法をとってみたけど、やっぱり無
 
         視。かるーく、スルー。
 
         「いつか好きだと言えるまで、ボタンちゃんは先生を好きでいたらどう?昇華できなか
 
          った恋は、一生傷を残すからね、できればきちんと終わらせた方がいい」
 
         重みのあるセリフだからイヤになるわね。
 
         この人があたしより、たくさんの出会いと別れを経験したって証拠だもの。過去にヤキ
 
         モチ妬いてもしょうがないけど、やっぱりおもしろくないんだから。
 
         「…そんなことしたら、辛くない?」
 
         怯えを含んだボタンの声は誰もが抱える不安。抜き差しならなくなる前に、傷が浅いう
 
         ちに望の薄い恋から手を引こうと、考えちゃうのよね。
 
         「頑張って、嫌いになれるものじゃないもん。好きって、しぶといわよ」
 
         だから、頑張って。生まれたばかりの想いを、伝える前に殺したりしないで。
 
         「…そうかも…あんなに泣いたのに、ちっとも好きが減ってない」
 
         しゃくに障る、て呟いたボタンはちゃんと笑ってたから大丈夫ね。
 
         何度玉砕してもあたしは一緒にいるから、安心して砕け散ってきてよ。
 
         ボタンはすごく可愛いんだもん、本気で迫ればきっと森山先生の1人や2人、軽く落と
 
         せちゃうに決まってる。
 
         でも、人の大事な従妹を泣かしたのも事実なのよね…
 
         「一度殴りに行かないと…」
 
         「それは逆恨みだから、やめて下さい」
 
         …また、聞かれちゃったわ。物騒な独り言を…。
 
 
 
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