15.sideボタン    
 
         数学なんて大嫌いで、だから大抵それを教える教師だって大嫌いなのだ。
 
         ちょっと顔が良くて、面倒見も良くて、男子からも女子からも好かれてるんだとしても、
 
         私には天敵なんだからしょうがない。
 
         …そう、思っていたのに。
 
         「誰にだってさ、傷はあんだろ?」
 
         唇の端だけ不自然に上がったその顔が、胸の奥に鋭い痛みを残す。
 
         「手に入らなかった女ほど、鮮やか、でな」
 
         想い出に陰る瞳が、幻になっても忘れられない女性(ひと)だと雄弁に語るから、冗談
 
         にするしかないじゃない。
 
         「女々しい嘘ついて!すぐに忘れて次の人好きになったんじゃないの?」
 
         強く背を叩いた手の震えに気づかれないことが救いで、笑い飛ばしたことで声の震えを
 
         誤魔化せたことが勝利。
 
         私のために用意された小さな机を挟んで、こちらとあちら。
 
         数学準備室なんて、ていのいい喫煙所でしかない部屋は紫煙に曇り、僅かな時間ぶつか
 
         った視線の意味をうやむやにする。
 
         覗いたはずの先生の未練を、生まれたはずの私の気持ちを。
 
         だけどそれは一瞬。
 
         得意のいたずらっ子の笑みに全てを隠して、軽いセリフに上手に織り込んだ本心。
 
         「バーカ。恋心に終わりなんてあるかよ。色あせねぇ限り、生きてんだ」
 
         貴方が放った言葉に、枯れない花が芽吹いてしまった。
 
 
 
         傲岸不遜で横柄で、とびきり優しくてどこか憎めない傍若無人。
 
         人気のない教科ナンバーワンを誇る数学を生徒に「楽しみだ」と言わしめた立役者。
 
         我が校のOBで着任2年目、将来有望な24歳。
 
         森山純太というのは、こんな先生だ。
 
         もちろん、ムカデよりカエルよりヘビより数学が嫌いな私にとって、一生関わり合いに
 
         なることのない人間で、教科担任が彼だとわかってお祭り騒ぎになった教室でも、接点
 
         はないなと、一人ゴチたほど。
 
         「先生、ここわかんない!」
 
         「俺が先!こっちさ…」
 
         「やだ、時間無いのに〜これ見て〜」
 
         だから、こんな風景を見てもしょせん他人事だったわけ。
 
         教師を中心に生徒が黒山の人だかりって、8割方が女生徒だとしても2割男子がいるの
 
         がすごいじゃない、モッテモテね〜とか横目で観察しちゃう程度に興味なし。
 
         この日も早々に帰り支度を終えると、彼等の横を通り過ぎようとした。
 
         「さよなら」
 
         両親にイヤと言うほど仕込まれている挨拶を、どうせ聞こえやしないとタカを括って呟
 
         いて、安住の我が家へいざ帰りこん、よ。
 
         「待て!星野ボタン!」
 
         呑気に晩のおかずに思いを馳せていた私は、予想もしない大音量で人の名前を叫び上げ
 
         た先生が、生徒の間から転げ出てきて背後からチョークスリーパーをかけて来るとは思
 
         いもしなかった。
 
         いや、そんな危険に注意を払って生活してる学生なんているわけ無い、いたら嘘だ。
 
         「今日こそは、逃がさねぇぞ」
 
         ふふふ、と不気味な笑い声を上げる不審人物が耳元で囁くから、思わず知らず表情が硬
 
         くなる。
 
         触るんじゃない、セクハラ教師!数字菌がうつるじゃないか!!
 
         恐ろしい病を発症させる病原菌だよ?円周率が言えたり、ルート計算ができたり、三平
 
         方の定理なんかが理解できちゃうなんて、ほーら常人じゃない!!
 
         あからさまにその辺りが顔に出ていたんだと知ったのは、先生の指が眉間の皺をぽちっ
 
         と押したから。
 
         自動販売機じゃないから、なんにも出ないし。むしろその扱い、むかつくし。これ見よ
 
         がしに悲しそうな顔したって、積み重ねた偏見とコンプレックスは消え去らないよ?
 
         「あからさまな顔な…そんな俺が、嫌い?」
 
         うっかり頷きそうになる私を見逃しちゃもらえないかしら?
 
         しょうがないじゃない。先生の人柄とか容姿とかは問題なくてもね、他にほら、
 
         「数字と公式がじんましん出るくらい嫌いです」
 
         正面切って、率直に、言い切りましたよ、ええ。
 
         余計な誤解とかあっちゃまずいもんね。真実って、知ってる方が手も講じやすいと思う
 
         のよ。
 
         例えば近づかないとか、路傍の石の如く無視するとか、記憶から存在を抹消するとか。
 
         ところがちっとも納得しない物わかりの悪い教師は、くるりと私を反転させると長身を
 
         屈めて目を覗き込んできた。
 
         真っ直ぐで、少々居心地悪い、奥深くを探る視線に、でも負けない。
 
         「そんだけ?他教科は結構できるお前が、数学だけ赤点なのは、そんな理由?」
 
         「物理も赤いです」
 
         アレにも読解不能な記号の羅列があるからね、うん。
 
         胸張って言い切った私にニカッと笑った先生は、特訓しようと恐ろしい提案を…。
 
         あたしも僕も特訓したい、と希望者が名乗りを上げるけど、先生は軽くスルー。
 
         勢いなのか故意なのか、バラしちゃならない事実を公表したのよ!!
 
         「お前らね、この人の成績知らんからズルイとか言えるんだよ。期末0点とったのは、
 
          学内で星野ボタン1人なんだぜ?」
 
         「わ〜!わ〜わ〜!!」
 
         自覚のある数字音痴とて、羞恥心は現存してるのだ。
 
         頭一つ分高い先生の口を封じようと、伸ばした腕は簡単に捕獲されて泣き真似をした彼
 
         は更に質の悪いマネをしましたのよ!
 
         「古文と英語が満点なのは、どういったわけ?俺の関心を引くために数学だけ白紙回答
 
          なんか?」
 
         「するか、ボケっ!!」
 
         突っ込んでしまった…大人しくてしとやかさんのイメージを作っていたのに…ぶちこわ
 
         し…。
 
         呆然とするクラスメートを尻目に、私を迎えに戸口に現れたハルカが余計な一言を呟い
 
         たのも、痛手だったわね。
 
         「へぇ、ボタンてバカだったのね」
 
         …ほっといて…。
 
 
 
         紆余曲折もなく、ただひとえに私の赤っ恥で始まった放課後特別補習は、あれからもう
 
         2月を数えている。
 
         「なんで中学生レベルの問題ができねぇんだよ」
 
         「うるさいわね、算数で止まってる人間にムリな注文出すんじゃないわ!」
 
         「九九はできんだから、算数はねぇだろ?!」
 
         「バカ言っちゃいけない、九九は暗記。領域は国語よ!!」
 
         「…それでどうして入試通る…?」
 
         「天才的な山師を味方につけて、死ぬ気で一年勉強すればいいの。ま、受かった後に全
 
          部忘れちゃったけどね」
 
         「覚えとけよ…効率の悪い脳だな…」
 
         「わるかったわね!」
 
         日常会話レベルは極めて低く不毛な会話で埋め尽くされてるんだから、多少なりと成績
 
         が上がってなければ私はとっくに逃げ出していたはずだ。
 
         現に数回、逃亡途中で拿捕されてるし。
 
         最初の一週間で学校名物になるくらい、激しいバトルを繰り広げたしね…ふふ、イメー
 
         ジもくそもあったもんじゃない。慎ましやかな優等生は、空の彼方へ消えたわ。
 
         今じゃ誰も私の立場を羨まないのよ?学校一の人気教師を独り占めはしたいけど、毎日
 
         日が暮れるまで数学準備室で缶詰にされて、公式覚えるだけじゃイヤなんですって。 
 
         でも、意外に楽しいのよ?
 
         先生の数学は分かり易くて、軽口たたける雰囲気もいい。ここ最近は大事な放課後を大
 
         嫌いな数学に潰されることにも苦を感じなくなってきたくらいだもん。
 
         だから今日も、弾む足取りで補習に行くの。明日も明後日も、きっとずっと。
 
         先生のことを考えるとフワリと温かくなる胸を押さえて。
 
         ところが、その日は先客がいた。
 
         細く、室内を写す隙間から見えた震える肩と、苦笑いを貼り付けた先生の顔。
 
         立ち聞きなんてする気は無かったけど、聞こえてしまった会話。
 
         「ごめんな。でも、生徒は俺にとってどこまでも生徒だから」
 
         瞬間、締め付けられた心臓に呼吸さえ苦しくて、顔をしかめる。
 
         言われたのは、私じゃない。涙を堪えて、それでも先生を見つめ続ける彼女の方が、余
 
         程辛いだろうに。
 
         なぜ、私は傷ついているの?
 
         凍り付いた時間の中、気丈にも一礼して戸口を目指す彼女から慌てて姿を隠した。
 
         しっかりとした足音が通り過ぎるのを待ちながら、真逆に震える自分の膝に手を添える。
 
         『生徒は、どこまでも生徒だから』
 
         反芻して、しなければよかったと激しく後悔した私は、不覚にもこぼれ落ちそうになっ
 
         た涙を何度も瞬きするって方法で飲み込んだ。
 
         ずっと傍にいたから、他の誰より先生の近くにいたから、自分は特別だと思っていたの
 
         かも知れない。
 
         授業中ではできない軽いやり取りを楽しみながら、たまにある触れ合いも全部私だけの
 
         特権で、ここは随分心地いい場所で。
 
         自覚が遅れたのはそんな奢りのせいだ。
 
         同じだったのに、一生懸命告白してそれでも玉砕した彼女と私の立ち位置は一緒。
 
         先生に恋する生徒。それ、だけ。
 
         もう、とっくに補習を始める時間だったのを携帯で確認して、迷う。
 
         帰っちゃおうか…?
 
         自分の恋心を自覚したからって先生にとっては仕事でしかなくて、いつもと同じように
 
         接していれば困ることもない、わかっているけど、できないもん。
 
         好きな人が目の前にいて、それは叶わぬ恋で、普通に笑うなんて器用な真似できない。
 
         せめて一日、頭を冷やせる時間があれば…上手い断りの言葉くらい見つかるかも知れな
 
         いから、こっそり逃げてしまおう。
 
         決意して踵を返す、そんな時に限って神様はいじわるなんだ。
 
         「…なにしてんの、そんなとこで」
 
         「きゃあぁ!!」
 
         思わず悲鳴を上げちゃったじゃないの。
 
         振り向いた鼻先にかがみ込んだ先生の顔があれば、そりゃあ大いに驚くでしょうよ。
 
         「耳イタっ!おま、声でかすぎ」
 
         なんて苦情は受け付けられないくらい、こっちの方が驚いてるんだから、もう!
 
         「そっちこそ!…なにしてんですか、こんなとこで」
 
         人の決心を無にするタイミングの良さ、まさかどっかから見てたんじゃ…。
 
         「いや、あっこから丸見えなんだよ、ここは」
 
         斜め前、夕日を反射するガラスから見通せるのは…不覚にも数学準備室って丸見えだっ
 
         たの?悩んでる姿が。
 
         まぁ、声聞こえてなければいいんだけどね、いいんですけどね…。
 
         呑気に煙草を吹かしながら先生はいらない説明までしてくれた。ぼーっと立ってるだけ
 
         で動こうとしない遅刻者をわざわざ迎えに来たんだと。
 
         …めいっぱい、余計なおせわなんですけどね。
 
         「ほれ、時間ねぇんだからさ、ちゃっちゃとやるぞ〜」
 
         「ええ?!ちょ、待って、待っちなさいって!!」
 
         ネコにするかのように人の襟首を掴んだ先生は、すたすたヤニ臭い準備室に私を連行し
 
         て、抵抗する間もなく定位置、自分の正面に座らせてテキスト開くって…
 
         「いえ、あの、ねぇ?」
 
         中空に向かってぷっかりぷっかり、輪っかを製造してる彼には言わねばなるまい。
 
         帰らせて欲しいんです。貴方のペースに巻き込まれて、すっかりライトテイストですけ
 
         どね、結構ナーバスなんですから、これでも。
 
         「あ?質問?」
 
         ところが人の心中なんてまるで気にもせず、阿呆な顔して阿呆な返事をするから、つい
 
         うっかりいらない言葉が口をつく。
 
         「先生は失恋したことなんて、なさそうよね。全部恋愛は思い通りになった、そう見え
 
          る」
 
         思ったより傷が深かったから、脳天気な顔が余計に鼻についた。さっき彼女を振ったこ
 
         の部屋で、なんでもないことのように振る舞う先生に、腹が立つ。
 
         私は、自分の恋心さえ思い通りにできなくて本人の前にいることさえ辛いのに、先生は
 
         子供の気持ちだって流すの?彼女も私も、真剣なのに。
 
         いじわるがたっぷり塗り込められたセリフに、けれど彼は意外なほど真剣な目をして答
 
         えをくれる。
 
         まだ、好きな人がいる。忘れられない。ちゃかしても乗ってくることはなく、胸の内を
 
         上手に隠した笑顔で『まだ生きている』と言い切った。
 
         「ごめんなさい、ひどいこと言って」
 
         せめて嫌われたくなくて、私は潔く頭を下げる。
 
         恋は…叶わなかった恋は、誰の胸にも傷を作るのだ。まして、思い切れないのならそこ
 
         からは絶え間なく血が流れ。
 
         少し前まで知らなかった感情は今一番身近で、先生の想いに触れて一層痛みを増した。
 
         決して踏み込んでは行けない場所を、無神経に踏み荒らしたと知ったから。
 
         先生の恋が生きている限り、私の恋が実ることはない。
 
         「ホント、ごめんなさい。今日は、帰るね」
 
         もう一度謝って振り返りもせず、逃げるように出口へ急いだ。
 
         少しでも顔を見たら泣いてしまいそうだから、みっともなく自己憐憫に酔って八つ当た
 
         りをしてしまいそうだから、ここから出なくちゃ。
 
         「待てよ」
 
         どきりとするほど低い声に、逆らえず足が止まる。
 
         「謝るな。お前の言う通り、忘れて先に進まなきゃなんねぇのはホントだからさ」
 
         子供相手なのに妥協しない誠実な声が、虚しく好きを募らせた。
 
         「それだけじゃなくて、言いたくないこと、言わせたから」
 
         「…黙ってることもできたのに、答えたのは俺、だろ?」
 
         聞かなきゃよかったと、後悔してること伝えてみようか…?
 
         彼女を見なければ、先生に惹かれてる自分に気づいたりしなかった。
 
         うっかり滑り落ちた言葉を上手に誤魔化してくれれば、深みに嵌ったりしなかった。
 
         「…とにかく、ごめん。明日また、来るから。今日は帰っていい?」
 
         ねえ、落ち着いてじっくり考えなくちゃ。
 
         心を隠しても先生の傍にいたいのか、上手く言い分けて二度と関わらずに過ごすのか。
 
         でもきっと、明日は来れない。一晩じゃ傷は癒えないもの。
 
         「約束できるか?逃げたりしないで、ちゃんと来るか?」
 
         それは、弱気な心を見透かしたように鋭い問いで。
 
         「…うん」
 
         「こっち見ろよ、ちゃんと俺を見て言えよ」
 
         一段、低くなった声に全身の血が悲鳴を上げた。
 
         できるわけないじゃない。泣きそうに歪んだ顔で先生を納得させられるわけない、他意
 
         はないとわかっている言葉にも躍り出す心臓を抱えて、向き合うことができる?
 
         でも、そうしなければ解放してもらえないとわかっているから、それらしく見えるよう、
 
         知っている顔を真似てみた。
 
         うっすら微笑んで、知らない人には決して見破れないよそ行きのポーカーフェイスなら
 
         本心は零れたりしない。
 
         「約束。また明日ね、先生」
 
         振り向いて手を振った。
 
         訝しむでなく、かといって納得したとも思えないけれど、僅かの逡巡の後、彼も手を挙
 
         げた。
 
         「…また、な」
 
         「また、ね」
 
         恋をして、恋を亡くして、一日を終える。
 
 
 
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