1.side美月
 
 
 
        課長がパパになる宣言をした翌日、私は久しぶりにのんびり朝の時間を過ごしていた。
 
        アスカの髪を結って支度を完璧に終えた後、それでも残る余裕に思いついて髪を巻き、き
 
        ちんと化粧をする。
 
        小さな鏡に映るのはいつもの有能な自分じゃなくて、年相応に見えるシンプルなOLの姿
 
        だった。
 
        これなら少しは褒めてもらえるかしら?少なくとも異性の興味を引かない女には見えない
 
        といいんだけど、初日に言われたセリフは意外に重く、私の中に残っているのよ。
 
        「ママきれい」
 
        手に入れたばかりの呼び名を使って小さな女の子に褒めて貰うと、なかなかどうして自分
 
        も捨てた者じゃない気がするから不思議。同じように彼が褒めてくれることを祈りながら、
 
        見上げる少女の頬に手を添えた。
 
        「今日はアスカとお揃いよ」
 
        肩口でフワリと揺れる巻き毛を互いに引っ張り合って微笑むと、古い木戸を叩くノックが
 
        聞こえる。
 
        何事にもぬかりない課長らしく、約束した時間に正確な訪問。
 
        「パパだ!」
 
        喜び勇んで駆けてゆく娘に、苦笑を禁じ得ないのはしょうがないわよね。
 
        会って2日で親子ってあり得ないわよ、普通。それを子供はともかく大の大人まで一緒に
 
        なって当然のように受け入れてるんだから、納得できない私がおかしいんじゃないかって
 
        気になるじゃないの。
 
        「おはよう、パパ!」
 
        「おはよう、アスカ。今日も可愛いな」
 
        玄関先でひとしきり抱擁を楽しむ彼等は、親子にしか見えないから困る。
 
        「…おはようございます」
 
        一夜明けて冷静に考えると、夢のような出来事に追いつけない現実のギャップで頬が熱く
 
        なった。
 
        この人とキス、しちゃったんだ。勢いで結婚の約束めいたこともした気がする。
 
        アリエナイ。社内一人気の高い部署で、最も高倍率な男を私が落とせたなんて一体誰が信
 
        じるの?世界中の人が認めても、自分が納得できないわ…。
 
        やっぱり取り消すって言われるんじゃないのかしら、それとも諦めてくれとか?
 
        不安でまともに顔を見ることができない私に降ってきたのは、予想通りの固い声。
 
        ただ違っていたのは、その内容だった。
 
        「その格好で行くのか?」
 
        「…恰好、ですか?」
 
        そんな想定外なセリフを吐かれても…どこかおかしいかしら?
 
        ブラウスの上に羽織ったジャケットも、パンツも深いエンジの地味なスーツだし、出社の
 
        スタイルとしてはいつもと変わりないはずだ。緩く巻いて下ろした髪や化粧は入社して始
 
        めてしたおしゃれだけど、他の女子社員と並んだら埋もれてしまうくらいに平凡だと思う
 
        んだ…でも、変?
 
        チラリと盗み見た課長の表情は嫌みでやりこめた時と同じくらい暗く、不機嫌なオーラに
 
        彩られていてどきりとする。
 
        「いつもと違う」
 
        無言の問いかけに仏頂面で答えると、彼は躍る毛先を一房取った。
 
        「どうしてひっつめ髪じゃないんだ?なぜ口紅を塗っている?それじゃメガネをかけてい
 
         ても不細工に見えないだろ」
 
        ………えらく失礼なことを言われた?違うわ、遠回しに褒められた?どっちにしても着飾
 
        った女に対する言葉じゃないわね。
 
        「大きなお世話です。だいたい課長の言う通り、私は男性の興味を引かない容姿をしてい
 
         ますから多少外見を変えたくらいじゃ誰も気づきません!」
 
        せっかくの休戦もここまでよ。
 
        アスカのことは素直に褒めるくせに、少しでもきれいに見せたいって女心を踏みにじるよ
 
        うな男、手加減するもんですか。
 
        「俺が…」
 
        「行きますよ!」
 
        まだ言い募ろうとする課長の横をすり押し出して鍵をかけると、足音も高くスチールの階
 
        段を駆け下りる。
 
        しばし躊躇していた彼も一つため息をつくと、同じように足早に車の元に降りてきた。
 
        「ママ、怒ってる?」
 
        いつの間に用意したのか、後部座席に取り付けられたチャイルドシートに収まったアスカ
 
        が不安げな瞳を向けるのに、瞬時に笑顔を取り繕った私は首を振る。
 
        「全然。ちょっと課長をからかっただけよ」
 
        いけないいけない。子供の前で感情的になるのは御法度よ。大人以上に勘が鋭い上に、喜
 
        怒哀楽に敏感に反応するんだから。
 
        だけど、少女はその嘘に騙されてはくれなかった。無言で車を発進させた彼にも矛先を向
 
        けようと、不自然な体勢で運転席を覗き込む。
 
        「ホント?パパも怒ってない?」
 
        「…パパは怒ってる」
 
        「ちょっ!」
 
        人が誤魔化そうとしてるのに、なんで邪魔するの!
 
        すんでの所で怒鳴り声を押しとどめ、きつい視線を送るに限ったのに、脇見運転バリバリ
 
        で背後を振り返った課長はむっつりと顔を歪めていた。
 
        「ママがきれいになったら、アスカのパパになりたい男が増えるだろ?だから面白くない」
 
        …そう来ますか。ストレートに、起こりもしない心配で不機嫌?つまり楽しくない言動の
 
        全てがヤキモチに繋がっていると。
 
        「…ふーん、でもアスカはママがきれいな方が好き」
 
        すり寄ってきてくれたこの子だけが頼りよ。赤くなった顔を隠すのも、照れちゃって上手
 
        く言葉が出ないことを悟られないようにするのも。
 
        保育園に着くまでわかってるのかどうか怪しい2人の大人な会話を聞きながら、平常心を
 
        保のに一日分の神経をすり減らした私が、助手席に乗り換えた時限界近かったのは間違い
 
        ない。
 
        「無闇に笑顔を振りまくなよ?」
 
        「そんな芸当できません」
 
        「髪はまとめておけよ?」
 
        「邪魔ですから、そうするつもりでした」
 
        「2人でいる時は緑と、呼んでくれ」
 
        「…緑さん…」
 
        素直に従ってしまう自分は嫌いじゃないわ。
 
        秘密めいた微笑みを交わすのも、結構気に入りそう。
 
        だから社内では反発しあう関係でも、2人の時は余計な言葉を紡ぐのはやめましょう。
 
        絡め合った指先や、甘い空気でお互いを満たすの。
 
        ほんの短い移動時間、ただ黙って隣の熱に浮かされて、そうして今日も幸せは降りてくる。
 
 
 
                HOME    NEXT?
 
 
        リハビリ上がりには精一杯の出来上がりでした…。
        短いのはご勘弁を。
 
 
 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送