近衛大嗣氏の日常は、家族のフォローで終始する。
 
            『旅に出てくるな』
 
            気軽に言った両親は行き先も告げず消えた。
 
            『品評会に行くんだ』
 
            薔薇狂いの将彦は仕事の存在を忘れてる。
 
            『早希をいじめる予定だから』
 
            新妻にべた惚れ(傍目には)の隆人は爽やかに去って行った。
 
            『退屈』
 
            不機嫌に言い捨てた歌織は2,3日帰らないだろう。
 
            やり残された仕事を片づけ、誰もいない家に帰り着いた大嗣は己の不幸を呪った。
 
            連中の半分でもしたたかに生きられたら人生もっと楽に進むのに、お兄ちゃん気
 
            質がそれを許さない。
 
            「嫁をもらうかな…」
 
            火の気の消えたリビングで呟く彼は、かなりの割合で本音を漏らしていた。
 
            自分1人を大切にしてくれる存在、こんな日にねぎらいの言葉をかけてくれる温
 
            かい人を望んでなにが悪い。俺は疲れてるんだ。
 
            「あ、あの、お帰りなさいませ…」
 
            自己憐憫に浸ってソファーに沈み込んでいた大嗣は、控えめ通り越して亡霊のよ
 
            うに陰気な呟きに悲鳴を上げそうなくらい驚いた。
 
            「誰だっ!」
 
            怒りに燃える瞳で振り返ったドアの影、体から負の気を発して陰気に震える小さ
 
            な存在があった。
 
            メガネ、チビ、イマドキ捜すのも難しい三つ折り靴下。顔の造作以前に改善する
 
            余地を山と残した女。
 
            「す、すいません、お許し下さい、家政婦です…」
 
            ……近頃の家政婦は家事をこなす前に謝り倒すのが主流なのか?
 
            ともあれこの最悪の一日、大嗣氏は最後の迷惑と遭遇してしまった。
 
            「家政婦なら真っ暗闇で息をひそめるコトはしないで、食事の用意をしたり出迎
 
             えてみたらどうなんだ」
 
            怒りに任せて小動物のように怯える女を怒鳴りつけると、なかなかどうして骨の
 
            あるお答えが帰ってきた。
 
            「…電気代が無駄ですから、奧に用意して頂いた部屋でアイロンをかけさせて頂
 
             いていました。お迎えは行こうと思ってたんですが、ぼっちゃまの方が素早く
 
             て間に合わなかったんです。申し訳ございません…」
 
            萎縮して言い訳などできないだろうと踏んだのは、大きな過ちである。思ったこ
 
            とは口にする度胸は持ち合わせているようだ。
 
            例え蚊の鳴くような声だったとしても。
 
            ついでに大嗣には大層気に入らなかったフレーズも含まれていた。
 
            「…ぼっちゃま…?お前いつの時代の人間だ。なにより俺を見てその呼称が適切
 
            な年齢だと思うのか?」
 
            子供の数が多かったこともあるが、近衛家が抱える使用人は彼等を名前で呼ぶの
 
            を常としている。どんな年寄りだって『大嗣さん』で通しているのに、自分より
 
            若いであろう小娘に『ぼっちゃん』呼ばわりされるのはバカにされてるように聞
 
            こえてならない。
 
            「はぁ、すみません。お名前存じ上げないものですから…」
 
            「なに?!」
 
            家族の名前も覚えていない家政婦…。雇用を決めるのは母親だが、一体どんな基
 
            準でこの女を採用したんだか…大いなる謎だ。
 
            「…大嗣だ、近衛大嗣」
 
            脱力しながらも先のことを考慮に入れ、力ない自己紹介をした彼は、次の瞬間や
 
            る気ごと意識を闇の彼方に飛ばすことになる。
 
            「わかりました、大嗣ぼっちゃん」
 
            聞けよ、人の話…。
 
            「もういい、食事にしてくれ…」
 
            腹が立つのは空腹のせいだ、自分に言い聞かせた彼は陰気な家政婦に力なく命じ
 
            て着替えるためリビングを後にした。
 
            「すみません、お待たせ致しました」
 
            どうしたって謝らずにはおれない彼女を見るでもなく、テーブルに着いた大嗣は
 
            絶句する。
 
            「お前…今何時だと思ってるんだ」
 
            「えっと…9時ですかねぇ?」
 
            「そうだ、小学生なら就寝する時間だ。なのにこれを食えと?」
 
            「他に作ってないんです、食べて下さい…」
 
            卑屈なくせに押しつけがましい、タチの悪い弱気に頭を抱えた彼は、レストラン
 
            さながらのフレンチに腹の虫が撤退する音を聞いた。
 
            フォアグラは脂肪、生クリームも脂肪、サラダドレッシングまでご丁寧にシーザ
 
            ーと来た日には30越えた胃袋には拷問じゃなかろうか?
 
            「食えん、いや食わん!和食を作れ、時間がかかっても作れ!」
 
            だだっ子のようにそっぽを向いた大嗣氏に、離れて怯えていたはずの家政婦がに
 
            じり寄ったのはそんな時。
 
            「いいですか、大嗣ぼっちゃん。世の中には食事を取れない子供が沢山いるんで
 
             す。有名なアフリカ、アジア諸国、お隣の北朝鮮…まぁここはいろんな絡みで
 
             聞かなかったことにして頂いても構いません。けれど、実際こんなメニューを
 
             見たら先を争って奪い合う可哀想な人達が目白押しなのは事実。それなのにあ
 
             なたは箸さえつけないと言う。可哀想じゃありませんか、飢える子供達が!な
 
             により作った私が!!」
 
            「…なにげに自分が一番か…?」
 
            妙に力の入った最後の一言は、大嗣に女の人格を理解させるいい材料となった。
 
            でも、それだけだ。事態は一向に進展していない。
 
            「人類の食糧事情云々はともかく、趣旨が飲み込めても料理は飲み込めん」
 
            「私だって引けません。家政婦のプライドにかけて!」
 
            「…だから、いらんものは捨ててくれ。主人の願いを聞き入れない使用人はいな
 
             いだろう…」
 
            これは、ロクでもない家族といるより精神が疲弊するかも知れない。
 
            沸き上がる目眩を押さえて、仕事より脳細胞を働かせた大嗣は一つ妥協案を考え
 
            てみた。
 
            「お前、食事は?」
 
            「?まだですが」
 
            「それなら自分で食え。俺はさっぱりしたモノを食いたい」
 
            「…ああ、はい。そういたします」
 
            ようやく納得してくれた変に頭の硬い家政婦は、むかつく手際の良さでお茶漬け
 
            の支度を調えると、すっかり食欲の失せた彼の前に置いていく。
 
            「お口に合うかどうかわかりませんが、どうぞお召し上がり下さい」
 
            丁寧に頭を下げられた大嗣が反論しなかったのは、意識のシャッターが一枚降り
 
            たせいだろう。
 
            茶漬けに上手いもへったくれもあるモノか…。
 
 
            今朝はまともな食事だな。
 
            卵焼きに焼き魚にみそ汁は、日本人の定番メニューだ。いろいろ…いやかなり問
 
            題の多い家政婦だが、仕事はできるようだと安心した彼は、早希並みに学習能力
 
            が欠如していた。
 
            「メシ」
 
            「ハイ」
 
            にこやかに出されたのは、何でだろうバゲット。しかもご丁寧にガーリック風味
 
            ときた。
 
            「…白米を寄こせ」
 
            「炊き忘れました、すみません」
 
            謝ってるのに、部屋の隅にこれ以上よれないってくらい小さくなってるのに、言
 
            い切る声がにべもないのはどう言った仕組みなんだ。ここが手術室ならその頭開
 
            いて神経構造をじっくり拝ませてもらうところなのに。
 
            昨夜から馴染みになったため息を我知らず漏らし、大嗣はにっくき皿を押しやっ
 
            た。
 
            「…お前の中の家政婦の定義を聞かせてみろ」
 
            「えっ?…はぁ」
 
            まるでとんと使ったことのない言葉をひねり出すが如く、中空を見つめ首を傾げ
 
            た女は指折り数えはじめる。
 
            「ご主人様の生活を快適にサポートする?ご命令には無理のない範囲で応じる?
 
             …これ以上思いつきません」
 
            申し訳ありません、とこれまた聞き飽きたセリフを付け加えることを忘れない。
 
            謝られれば大抵のことは寛大に対処するおおらか長男ではあったが、この緊急事
 
            態はそこに含まれないと痛感した。
 
            「和食なおかずに、洋食通り越してすとんきょうな主食を用意するのが快適か?
 
             せめてトーストって発想はないのか!」
 
            怒鳴りつければ首を竦めながらも口を開く。本当にいい性格してるな…。
 
            「サービスだったんですがお気に召しませんでしたか…しかし今からお米を炊く
 
             のは、無理のない範囲で応じるって条項に引っかかっちゃうんですよ…」
 
            「さも当然に言うな!煮炊きする間にお釜をセットした間に合うだろうが!!」
 
            この不毛な会話を繰り返していると、いつか絶対血管が切れる。
 
            「無理です〜ご飯がないって気づいたの、さっきですよ?」
 
            可愛らしく首を傾げられたって、その容姿じゃ無理だ。
 
            むしろ火に油を注がれた大嗣ではあったが、決着をつけるには時間が足りない現
 
            状で。
 
            「…今晩、ゆっくり話し合おう」
 
            「…はぁ…」
 
            気のない返事には目もくれず、せめてもと卵焼きを摘んで席を立った彼は、車の
 
            中で歯がみした。
 
            腹の立つ…怒鳴り散らしたいほど味付けが俺好みだ…。
 
 
            「あっ、お帰りなさいませ」
 
            覗き込んだキッチンで夕食制作真っ最中だった家政婦が振り返った。
 
            「……ただいま……」
 
            冴えないその服装、メガネにかかるほど伸びた前髪、覇気のない態度、どれ一つ
 
            とっても大嗣の琴線に引っかかるモノはないのに、どうして自分は終業の鐘と同
 
            時に会社を出たのだろう?
 
            解せない自問に首を傾げながら、昼に思い当たった疑問だけでも解くことに決め
 
            た。
 
            「お前、名前は?」
 
            あれだけ派手な言い合いをした相手の名前を知らん。ついでにこいつは自分の家
 
            に住んでるのだ。不審な家政婦と同居している事実に仕事中気づいて愕然とした。
 
            俺としたことが…危機管理がなっていないな。
 
            「あー、今更ですね。はい、川原春日と言います」
 
            きっちり余計な一言を入れたのに顔をしかめるが、取り敢えず目的は果たしたの
 
            だから良しとしよう。
 
            「で、今晩はまともなモノを用意しているんだろうな」
 
            2度続けて虚しい想いをしたのだ、そろそろ本領発揮と願いたい。
 
            背後に回った大嗣は、リズミカルに動く包丁が切り出すものに安堵のため息をつ
く。
 
            長ネギか、余程のコトがない限り和食にありつけそうだ。
 
            ついでに見やった鍋の中では、大量のみそ汁が唸りを上げて彼を待ちかまえている。
 
            「…まさか、これだけでメシを食えと言うんじゃないだろうな?」
 
            「?そうですよ」
 
            「お前っ!ホントに家政婦か?!」
 
            食のテロリストなんじゃ、と疑いの眼を向ければ心外だと憤然とした声が返って
 
            きた。
 
            「豚汁はれだけで定食になる一品ですよ?なにが悪いんですか」
 
            「…そうか、庶民の間ではそうなんだったな」
 
            金持ち主義に浸らない努力をしてきたつもりだが、豚汁一杯で砂塵の如く消え去
 
            る程度のものだとの実感は痛い。
 
            豚汁定食か…。
 
           「もちろん小鉢できんぴら、箸休めに香の物くらいはありますからご心配なく。…
 
            お米も炊けました」
 
           タイミングいい電子音に気まずい視線を交わした雇用主と雇われ人は、一瞬休戦を
 
           暗黙のうちに誓い頷き合った。
 
           「着替えてくる。…1人は味気ないからな、お前も一緒に食え」
 
           どうせ話もあるんだ、合理的に行こうじゃないか。
 
           言い訳がましい理由をつけて振り返ると、にっこり笑った家政婦はやっぱり災いな
 
           口を開くのだった。
 
           「喜んで。あ、聞いたんだから名前で呼んで下さいね」
 
           …はいはい。
 
           コクと旨味の詰まった豚汁は、掛け値無しにうまかった。
 
           3度もおかわりをした大嗣は、満足げに箸を置くと食器を片づけはじめた家政婦−
 
           春日−に目をやり困惑する。
 
           結局、料理を褒めることや無難な話題に終始してずれにずれた彼女の心得違いを正
 
           すことができなかったのだ。更にまずいことに豚汁にほだされてこのまま低能な言
 
           い争いを続けるのも楽しいような気がしてきた。
 
           ゆゆしき問題、だが侘びしいはずの留守番は頭を悩ます陽気な会話に支配されている。
 
           …刺激的だな…。
 
           早希にかこつけて生意気な弟をからかっていた時以来の充実感、イエスしか言わな
 
           い(言わせない)部下と交わすより余程エキサイティングな会話。
 
           一度気に入れば多少の難点には目をつぶってしまう彼は、やっかいこの上ない春日
 
           を『ダメ人間』から『興味深い生物』に格上げしていた。
 
           「おい」
 
           2メートルと離れていな人物への呼びかけに、返事はない。
 
           「おい、聞こえてるんだろが」
 
           微かに触れ合う食器の音だけが響く。で、察しのよい大嗣は思い当たった。
 
           「春日」
 
           「なんでしょう?」
 
           パタパタと即座に駆け寄ってくる彼女は、忠犬のようでいて猫に近い。自分の気に
 
           入らないことには絶対うんと言わない、アレだ。
 
           「なんでそんな格好をしてるんだ。普通にできんのか、普通に」
 
           指摘したのはお下げにまとめられた髪と、白いブラウス、膝丈のタイトスカートに
 
           三つ折り靴下である。
 
           大嗣の視線を一緒に追って、己を見返した春日は疑問を疑問で返してきた。曰く、
 
           「これが家政婦の正しい服装だと思いますけど…お気に召しませんか?」
 
           …どこで仕入れた知識だ。開いた口が塞がらないくらい呆れてそのまま口に出すと、
 
           彼女は得意気に胸を反らせる。
 
           「マンガ喫茶と2時間ドラマです」
 
           「…市原悦子か…」
 
           「すごい!よくわかりましたね。そうです家政婦は見たんです」
 
           ニヤリと口元を歪めた春日に、疲労困憊で大嗣が頭を抱えたのは仕方ないことだ。
 
           「家には探らなきゃならん秘密は転がってない。頼むから普通の格好をしてくれ、
 
            現代風のまともな奴を」
 
           「はぁ、すみません。以後気をつけます…」
 
           定番になった謝罪を口にしながら、不服そうに顔を歪めた彼女は人としてどうなん
 
           だろう。
 
           もしかして、もしかしなくても…変人?
 
           「…お前、誰だ」
 
 
           見覚え無い女がキッチンで腕をふるっていたら、誰だってそう言うだろう。
 
           「大嗣ぼっちゃん…ひどい」
 
            この、むかつく呼び方は、弱々しい声は、春日、かな?
 
            首を捻った大嗣は、とことんまで彼女の人格を疑いたくなる。
 
           (今度は和服…しかも顔が違うじゃないか…)
 
           地味な小紋に割烹着で、きっちり結い上げられた髪は隠れていた瞳もはっきり確認
 
           できる大サービス。メガネが消えてみればそこそこ整った顔があるんだから驚いた。
 
           「変装術の抗議ができるな」
 
           マンガじゃあるまいし、服装一つでここまで変われば一気に恋に落ちるなんて冗談
 
           もありそうなもんだが、相手が春日では心配ない。
 
           外見を持ってしても中身の奇抜さには遠く及ばないのだ。
 
           「いいですね〜家政婦に飽きたら探偵事務所の面接を受けてみます」
 
           ほら、おかしい。どんな流れで家事から尾行に転職する女がいるんだ。
 
           服装と真反対のベーコンエッグを眺めて、大嗣はため息をつくのだった。
 
           「で、どう気をつければいいでしょう?」
 
           一緒に朝食をつつきながら、今までの春日ではしなくてよかった忠告をしなけれ
 
           ばいけない大嗣は顔をしかめた。
 
           「…そうだな、一緒に薔薇を見に行かない、手入れを手伝わない、無駄に派手な行
 
            動に注意を払わない、殴らない、こんなところか」
 
           頭痛の種にしかならない次男を思って、改めて問題児だと吐息をつく。品評会から
 
           今日の午後帰宅する将彦は、外見の変わった彼女に余計なちょかいをかけること請
 
           け合いだ。注意を促しておかなければ、帰宅してすぐ救急車に弟を乗せなければな
 
           らないかも知れない。
 
           「…蹴るのはよろしいんですか?」
 
           のほほんと質問がえしする内容としては、ナイス。
 
           「だめだ。どんなに腹が立っても相手にするんじゃない。加害者になって心を痛め
 
            ることはないだろうが、無駄な体力を使った自分に自己嫌悪するぞ」
 
           「はあ、近親者にそこまでおっしゃれるぼっちゃんが、私好きです」
 
           「褒めてもなにも出んぞ」
 
           当人がここにいたら泣いて逃げ出す会話だが、近衛家では日常茶飯事なのでよし。
 
           取り敢えず食事を終えた大嗣は、限りない不安と共に再度春日を振り返った。
 
           「くれぐれも、短気だけは起こすなよ?」
 
           「大丈夫です〜気は長いですから」
 
           間延びした返答を証明するには、後数時間を要する。
 
 
           大急ぎで帰宅した大嗣の目の前で、ちょっと面白い光景が広がっていた。
 
           「春日さん、あなたに似合うのはこのベビーピンクの薔薇だね」
 
           「いやだぁ、将彦ぼっちゃん目がお悪いんですか?」
 
           「なぜ?可憐な君にはまたとない組み合わせだと思うんだけど」
 
           「それ、侮辱です〜。私はイヤになるほどもてないし、必要以上に人様の手を煩わ
 
            せないですよ?なにより食あたりするほどご飯を食べたりしませんから」
 
           「…?」
 
           「ですから、油断するとアブラムシだらけになったり、手間暇かけないと花もつけ
 
            なかったり、肥料食いと言われるほど栄養を必要としないってことです」
 
           「…はい?」
 
           「お花に例えるならめんどくさい薔薇じゃなくて、実用性に富んだ上、可憐な花も
 
            つけ更には害虫にも強いハーブをお願いしたいです。因みに好きなのはローズマ
 
            リー、ラベンダー辺りですから」
 
           と、まあ。薔薇の栽培にかけちゃ右に出る物そうそうなく、手塩にかけた花々に女
 
           性を例えることで称賛を浴びる弟を一刀両断する手強い家政婦を拝めた訳だ。
 
           最も笑えるのはその会話をキッチンで交わしていることだろう。春日の手は休むこ
 
           となく食事を作り続け、鉢をもってまとわりつく将彦など歯牙にもかけていない。
 
           いっそ邪魔であろうに器用に脇をすり抜け背後に回り、着物姿で動き回る様はさし
 
           ずめ子供と母親と言ったところ。
 
           「ただいま」
 
           笑いをかみ殺して声をかけると、振り向いた家政婦はプロの笑顔でのたまった。
 
           「おかえりなさいませ、大嗣ぼっちゃん。お手間をかけて申し訳ないんですが、こ
 
            の物体お引き取り願えませんか?」
 
           陽気におたまでさされた人物の、泣き出しそうに歪んだ顔はその後彼を10分程、
 
           笑いの拷問にかけたりする。
 
 
           「一緒に食べないのか?」
 
           用意された食事は2人分。ほっこり肉じゃがも、とろりとあんのかかった大根も大
 
           嗣と将彦の用意しかされていない。
 
           「今日はお一人ではありませんから、お寂しくないでしょう?」
 
           忙しくみそ汁をセットし終えた春日は、さり気なく見事なすり足で戸口に移動を始
 
           めていた。
 
           明らかに不審、あからさまに奇妙。
 
           「そりゃ、うるさいくらいだが…お前が一緒でも不都合はない」
 
           「いえ、結構です」
 
           頑ななまでの春日の態度は、どうしたって腑に落ちない。何か理由があるはずだ。
 
           「食え」
 
           「イヤです」
 
           否定されるのが気に入らなくて、一歩で距離を縮めた大嗣は彼女を壁と腕とに閉じ
 
           こめる。
 
           「今朝までは平気だっただろ?」
 
           脅す声音にも春日の意志が覆ることはない。
 
           「私、人見知りなんです」
 
           大嘘だ。
 
           「将彦ぼっちゃん、苦手ですし」
 
           さっき撃退していたのにか?
 
           「一応、使用人ですし」
 
           自覚があったとは初耳だ。
 
           「で、本当のところは?」
 
           どれ一つ耳を貸さず更に顔を近づければ、困ったように春日の微笑みが歪んだ。
 
           「今日までの契約なんです」
 
           期限があったことを、大嗣は知らない。どころかこの口の悪い家政婦は、いつまで
 
           も自分の傍にいるような気でいた。
 
           「…将彦1人が帰ってきたくらいで、家の食糧事情が改善するとは思えない」
 
           だから、いればいい。暗にほのめかしたのに、春日は首を振るばかり。
 
           「旦那様が旅行先でお仕事を始めたことに激怒した奥様が、もうすぐお戻りになり
 
            ます」
 
           彼らしくない舌打ちを漏らしてしまったのは、原因が自分であったから。代表者の
 
           承認が必要な案件が持ち上がって、手を尽くし探し当てた父親に書類を送りつけた
 
           のだ。
 
           「他にも仕事はある。やめることはないだろう?」
 
           なにせ無駄に広いこの屋敷、仕事なら腐るほどある。食事は自分で作ると聞かない
 
           母だが、掃除や洗濯は人任せ。春日が働くに困らないハズだ。
 
           「通いの家政婦さんがいらっしゃると伺っています。ですから、今日でお終い」
 
           微笑んだ彼女を強引にでも引き留めなかったこと、それは大嗣を数日憂鬱にさせた。
 
 
           一本遅い便で帰国した父に、母の機嫌は直った。
 
           打たれ強い将彦も、春日にいじめられたことなどなかったように薔薇の世話に熱中
 
           している。(仕事はしない)
 
           1人不機嫌にデスクに向かう大嗣のことなど気に留める家族はなく、やっかいな家
 
           政婦が消えて2日目、会議で顔を合わせた隆人が眉をひそめただけだった。
 
           「面白そうな匂いがしたんで、調べました」
 
           春日の不在に馴れ始めた5日目の朝、実に楽しそうな笑みを刷いて現れた弟は悪魔
 
           か天使か。
 
           「川原春日、27才。職業は…安定してませんね。サービス業から秘書まで手広く
 
            こなししかも長続きしない。特技は英語、ドイツ語、フランス語に設計士の資格
 
            を持った保育士。…どんな人間ですか?」
 
           「俺が聞きたい」
 
           なんだって社会で役立ちそうな資格をごまんと持った人物が家政婦なんかをしてい
 
           たのか、今となっては闇の中だ。
 
           隆人にしては珍しく理解の範疇を越える女であったようだが、直に接してきた大嗣
 
           は一癖も二癖もある性格を知っているだけにニヤリと口元を歪めてしまう。
 
           あの女なら何をやらかしてもおかしくないな、と。
 
           「兄さんは自分のこととなると意外に愚図ですからね、気に入った人がいきなり消
 
            えても消息を掴もうとは思わなかったんでしょ?」
 
           鼻で笑う風情の弟に、返す言葉はない。
 
           彼とてその手を考えなかったわけではないが、気に入っただけの春日を理由もなく
 
           呼び戻すのがはばかられたのだ。
 
           母は家で料理をしているし、通いの家政婦に不満があるわけでもない。
 
           仕事は終わったと宣言した彼女に、新たな依頼をするにはそれ相応の何かがなけれ
 
           ば。
 
           難しい顔で考え込んでしまった大嗣に、盛大なため息が落ちてきたのはそんな時。
 
           「あなたが女性に興味を示す、これだけで恋ですよ。変と少し違うだけの恋」
 
           「…随分な言われようだな」
 
           「気に入った、スタートなんてその程度でいいんです。邪魔があるなら排除したら
 
            いい」
 
           相変わらず怖いことを言う弟だ。しかも真顔の笑顔で。
 
           「お父さんをたきつけて、又旅行に行って貰いました。将彦兄さんには英国の知り
 
            合いのバラ園を貸してやりましたから、今夜からあなたは1人です」
 
           「…おまえ、まさか家の中に探偵でも住まわせてるんじゃないだろうな?」
 
           詳細どころか、僅か前まで春日の存在すらしならなかった隆人が何故、両親を旅行
 
           に出したり将彦を消すことを思いつくんだ。
 
           不吉な悪寒に捕らわれつつも、そのしたり顔を見れば愚問だったなと自嘲せずには
 
           おられない。
 
           俺の弟は普通じゃなかった。
 
           「凡人より頭が良くて、常人よりカンが鋭いだけですからご心配なく。今日帰れば
 
            家政婦さんに会えますよ?」
 
           敵に回すとやっかいな男だと思っていたが、どうやら味方にいても特性が消えるわ
 
           けではないらしい。
 
           一瞬顔をしかめるが、利点がないわけでもないので今回は大目に見ることにして席
 
           を立つ。
 
           「すまんがこの後…」
 
           「貸し一つ、これで手を打ちましょう」
 
           礼を言うのははなはだ不本意ではあったが、取り敢えず大嗣は急ぎ家路についた。
 
           出社したばかりだというのは、きれいに忘れて。
 
 
           「あー、おかえりなさいませ〜」
 
           少し照れたように笑う女。
 
           「ああ」
 
           無愛想に、それでも常より嬉しそうな男。
 
           もぬけの殻となった屋敷の中で、食事を作るだけの春日がいるには早すぎる時間だ
 
           が、隆人が手を回したならさもありなん。
 
           ドカリとソファーに腰を下ろした大嗣の前に早速運ばれたお茶に手をつけ、彼は笑
 
           った。
 
           「そっちこそおかえり、だな」
 
           「あはは…新しい依頼を頂きましたので」
 
           座ろうとはしない春日を無理に隣に引き寄せると、大嗣は帰るまで考えていたこと
 
           を声にする。
 
           「専属契約をしよう」
 
           「…はい?」
 
           「俺の食事係をやれ」
 
           「ええ?!」
 
           いつ切れるかわからない契約など不安定で仕方ない。
 
           隆人の言う通りにこれが恋だとするなら、見極める時間が必要だ。
 
           「取り敢えずいかほど…?」
 
           困惑の表情で聞き返す春日に、しばし考え込んだ彼は言う。
 
           「最低1年、伸びれば一生」
 
           「…スパンが長いですねぇ」
 
           こちらも考え込むと、首を捻った。
 
           その表情からは恋愛感情は読み取れない。尤も大嗣の方にしたってはっきりと自覚
 
           症状があるわけではないのからおあいこだろう。
 
           「会えなくなると困ることがあるんでな、当分傍にいろ」
 
           「命令ですか」
 
           「命令だ」
 
           うーんと更に唸って、春日は一つ手を打った。
 
           「今は家政婦モードですから、オッケーです。でも、他のことがやりたくなったら
 
            消えるかも知れませんよ?」
 
           それで妥協しろと。
 
           ふんと鼻を鳴らした大嗣は、近衛家特有の人の悪い笑みを浮かべると強く春日の手
 
           を握る。
 
           「かまわんさ、探し出して連れ戻す」
 
           「…お役御免になることもあり得るのでは?」
 
           「さてな、先のことはわからん」
 
           この気持ちを確たるモノにするまで、逃がす気はない。
 
           …どんなにいやがられても、だ。
 
           「わがままで、勝手で、傲慢ですね」
 
           「知ってる」
 
           「人の気持ちは考慮なさらないんですか?」
 
           「時と場合による」
 
           「…嫌いじゃないですけどね」
 
           苦笑して、握り返す手は何を伝えるのか。
 
           「いいですよ、しばらくはお付き合いします」
 
           「ああ、そうしてくれ」
 
 
           さて、恋は実を結ぶのだろうか。
 
           隆人だけが知っている(笑)。
 
 
 
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