忍れど色に出でにけり我が恋は5



途中から、なんに対する涙なんだかわからなくなってた。
お父さんに捨てられてからこっち、辛かったこと哀しかったことありとあらゆる感情が津波の如く押し寄せて 引きも切らず、現実の重みに立ち向かうんで一杯で忘れていた涙は決壊したらもう、果てなく溢れて止まらない。
おにいさんのご無体に泣き始めたのは確かだったけど、今じゃ悔しいポイントも怒りもすっかりずれまくって ただ感情の赴くまま子供みたいに泣き叫んでる感じ。
恥も外聞もなくてね、ちょっとだけ気持ちいいかも?
「いい子だから、落ち着いて。女の子を泣かすとね、祖母と母と妹に罵詈雑言をぶつけられた上、いけ好かない父に ネチネチいじめられるんだよ」
やんわり腕に抱え込んで、何度も背を撫でてくれるおにいさんの笑いどこ満載な冗談にも反応できなくてごめん。 しゃくり上げるのが忙しくて、それどころじゃないんだ。
……って、もともと切っ掛けはこの人が提供したんだから、収めるのもあやすのも己の責任なのか…そうか。 じゃ、遠慮無く。
なんて、関係ないことが頭を掠めたのはゆっくり理性が回復した証拠なんだろう。
鼻を啜って目尻に残っていた涙を指先で拭うと、これ以上の漏水はないことを確認してそっとおにいさんの胸板を押す。
「…すいません、取り乱しました」
赤の他人に弱いとこをさらけ出すって、正気に返ると恥ずかしくて仕方ないよね。
でも、縁の薄い他人だからこそ、そんな暴挙に出られたのかも知れない、とも思う。
おにいさんとはこの部屋を出てしまえば、二度と会うことはないから実は弱虫な私とか見せちゃっても平気だし、 情にほだされて流されるタイプじゃないってのは、ここまでの言動行動諸々を加味すれば一目瞭然で、だからこそ ギャップに過剰反応ってこともない妙な安心感がある。
現に一歩離れた彼はあっさり腕を放すと、顔を顰めてこっちを見下ろしてるもの。感情が読めない視線 でね。
「どうして泣くの」
呆れた調子の上ため息混じりって、こっちの方がそんな気分だって気づいてないんだろうなぁ。 案外鈍いって言うか、究極の自己中って言うか。
「普通、泣くですよ、この場合。いっくら貧乏でも…ひっく…自分が産んだ赤ちゃんは、あげられません」
猫や犬の子だって最近は貰い手を選ぶ時代だってのに、人間の子供が右から左に取引されたんじゃ倫理も母性もあったも んじゃない。
いえね、世の中広いですから、捜せば己の子でも売り払う親がいるかも知れませんよ。だけど私はできないんだもん。
それがわかんないって顔してる人と、多分何年話しても意見の一致は見られないと思うじゃない。
「なんで、ほか当たって下さい」
てわけで、解せないと難しい顔してるおにいさんに促すと私は彼にさっさと背中を向けた。
エンコー代も雨風しのげる住処も喉から手が出るほど欲しいけど、ここはプライド優先よ。
お金で何でも買えると思ってる人にそれをねだるのは、自分がひどく安い人間になった気がして許せないから、 何も要求せずに立ち去るのが、格好いいって感じ。
やせ我慢だなぁって苦笑が出たら、上等。潔く消えてやろうじゃない。
ところが、人間てのはあくまで自分の役割から逃れられない宿命のようで。
「わぁっ!でっ!!」
勢いつけて開け放ったドアの向こう、踏み出した一歩を襟首捕まれて邪魔されて、つんのめって倒れるから吉本新喜劇 ばりの転倒シーンをご披露できたのさ。
そりゃさ、キレイに生まれたおにいさんと違って私はお笑い担当人生まっしぐらですよ、ですけどね?わざわざ 人とっつかまえて引き留めたんなら、せめてその手を放さない優しさってのはありませんでしょうか。
なにも危ないって瞬間に、空中に放置しなくてもいいじゃないの。
高くもない鼻を強打して目から星が飛ぶ体験は、したくなかったですよ。泣けるほど痛いですからっ!
床にはいつくばったまま恨みがましく睨んだら、さすがに小声で謝りはしたけれどどっこも悪いと思って ないね、あれは。
「…気味が悪いから、笑いをかみ殺すのやめて下さい」
「…笑っちゃ、さすがに悪いでしょ」
「今更ですよ。これ以上おにいさんに幻滅する要素はないんで、安心して好きなようにしたらいいんです」
「あ、そうなの」
じゃ、遠慮無くって本気で笑う?普通!
けたけたそりゃー楽しそうに笑われたんじゃ、もう突っ込む気力も湧いてこないって。
バカみたいなおにいさんは放置決定で、のっそり立ち上がるとなにやら視界を不吉な赤が過ぎる。
「?」
動く己に合わせたように床に点々散っていくこの色、形状、もしや…。
「くくっ…動くなら…っ…拭いたら?」
途切れ途切れ指摘する彼がさりげない仕草で示したのはやっぱり、ああっ
「いやーっ!!」
とっさに鼻を覆った掌にぬるりと付着したものの正体なんて確かめたくもない!
どうなの、自分?!16にもなって鼻血吹くって、しかも派手に転んだ直後なんて恥ずかしすぎじゃない〜っ!!
惨め通り越して虚しくなって来ると全身からすごい勢いで力が抜けていくから、不思議だ。
折角立ち上がったのに、速攻床に逆戻りして手探りで引っ張り出したハンカチを命綱みたいに鼻に押しつける、 情けないみっともない、でも不幸のフルコースを堪能した後のデザートとしちゃ物足りない中途半端な結末が、どうか 本日最後の災いとなりますように。もうお腹一杯、アイス一口入んない!
「取りあえず、あっちに行って座らない?…ああ、警戒しなくても大丈夫。もう無茶な提案はしないし、許可無く三宅 さんに触ったりしないって誓うから、ね?」
どんな意地っ張りだって醜態をさらした後じゃ、ずたぼろのプライドが邪魔して初心を貫けないものなんです。 格好良く退場も無理、怒り狂って怒鳴りつけるも無理じゃ素直に提案を聞き入れる体勢ばっちりなんですよ。しかも おにいさん、出会ってから初めて人間らしい表情で確約してくれちゃって信用してもいいかななんて、喉元過ぎた熱さは すっかり忘れちゃったぞー、みたいな甘さ満タンで差し出された手を取っちゃったのだ。
お手を要求されたワンちゃんよろしく、ぽてっと前足…違った掌を彼のそれに載っけちゃって。
「捕まえた」
にっこり、邪悪にしか見えないエンジェルスマイルで宣言されてもしばらくなにを言われているんだか気づけないほど。
「僕ね、びっくりするくらい本気で君を気に入っちゃったよ」
純真無垢に見上げるちょろい子羊は、狡猾悪辣な狼に丸飲みされるのが逃れられない定めなのだという。
定めなくていいっ!ていうか、どんなに可愛らしかろうと子羊なんてカテゴリーで括られる自分は嫌いよ〜!
絶対狼の方がいい。世知辛い世の中を渡り切るには、あれっくらい悪知恵が働かなきゃっ!
「けけけ、結構です!遠慮します、ご辞退申し上げます!そんな宣言は全然全く爪の先ほども聞きたくありません!」
ダッシュしたってピンと突っ張った腕が痛いだけで、おにいさんが腕を放さない限り私に逃げることは叶わなく。
「解放を要求します、議長!」
「却下」
「早っ!」
ショートコントしてる場合じゃないんだって…。
混乱の頂点にいるこっちのことなどお構いなく、楽しそうに嬉しそうに彼は声にしたらいけないことを口にしちゃうわけ で。
「体をを許したんだから、心も許してみたらどう?」
「できませんっ!!」
間違いすぎ、根本的なところが間違ってるこの人っ!
「体より、心。心には、愛!わかりますか?愛がなければ何も始まりませんよ!」
「愛はそのうち生まれるよ」
「そりゃ、歌詞です!お歌のぱくりです!」
こうして不毛な綱引きと会話は、一晩中続いたのでした…てことに、このままじゃなりかねない。それだけは断固阻止し ないといけないわ!
一向に自由を取り戻すことない手首に恨めしげな視線を送り、そもそもなんでこんなことになっちゃったのかため息混じ りに私は考える。たっぷり時間をかけて、多少現実逃避もしつつ、おにいさんの態度が変わった辺りを重点的にしつこく、 たんまり。
…もしかして、あそこかな…?きっとそうだね…お願い違うと言って下さいな…。
「鼻血出して気に入られても、嬉しくないんですけどね」
確認をしなきゃ気が済まない自分がイヤだと思いつつ、否定もして欲しくて小声でカマをかけたのに笑うんだ、傑作 だったなって。
「25年生きてきて初めて見たよ、鼻血を吹いた女の子。君といたら人生楽しそうだ」
「笑いが必要なら吉本新喜劇でどうぞ!」
「わざわざお金を払ったり、見たい時に見られないって違うと思わない?常時隣にあるっていう娯楽が欲しいんだよ」
「歪んでますよ、おにいさん!」
「知ってますよ、お嬢さん」
これじゃ一方通行。会話してるんじゃなく、お互いの主張を叫んでるだけって気がしてきた。
ううん、間違いなくその通りなんだ。だって譲ろうとか折れてやろうって気配すらないよ、この強引で我が儘な人には。 にこにこ一瞬人が良く見える笑顔は、その実頑固な内情が滲み出しているくせ者色の濃いもので、それが証拠に自分好み の返事を聞くまで強く捕らえられた腕は自由を得ることはないと無言で主張しているから、もう泣きたいよ。
なんてよろしくないものに取り憑かれちゃったんだ、私は。
「…いつ生まれるんですか、愛」
そっちが妥協しないなら、こっちが妥協してやるわ。くやしいけど。
はっきり答えなかったら許さないんだから。
そんな気持ちをたっぷり詰めた視線に応えたのも、やっぱり綺麗な笑顔。
「3年後、にね」
さっぱりわかんない。なんの根拠があるわけ、その年月に!
だけど行く当てがあるわけでなし、毒を食らわば皿までっていうもん。
「じゃ、3年、笑いを提供させて頂きます」
「はい、よろしくね」
長期契約だって言うのに、締結には握手がひとつだけ。
でもね、にこにこのおにいさんには悪いけど提供するのは笑いだけ、なんだから。絶対わかってないみたいだけど、 じっくり時間をかけて教えてあげるわ。


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