楽しい休日の午後を過ごしてきたけど、一人になるとやっぱちょっとダメージが残ってるってわかる。
一番古くて一番大事な友達にずっと隠し事されてたっていうのは、きちんと理由を聞いてもショックなものなのよ。
早希は今日会えなきゃ、まだ黙ってたんだよね?一体いつ、話してくれるつもりだったんだろう。もしかして、言う気はなかった?
そんなはずないって、本当にタイミングをずらしただけだろうってわかっているけど、ネガティブ。ずるずる真っ暗な思考の海に落ちて、軽〜く遭難者気分。
人混みに歩く気分にはなれなくて、ぴとっと手近な壁に張り付いてみる。
信用されてなかったのかなぁ、脱力するなぁ。
友人、恋人、夫婦、親子連れ、横を流れていく人たちは様々だけど、その中で今、あたしが一番へこんでて、鬱陶しオーラ出してんだ。でまた、友達にも煙たがられるんだ。
いつでも一緒だったのに。あたしの学生生活、隣にはいつも早希がいたのに。彼氏がいなかった分、友達に依存してたから、なんか失恋気分よ。恋人をダンナさんに奪われたみたいで、いっそ闇討ちでもしてやろうかって気にさえなりする。
「大丈夫?生きる気力、ある?」
冗談じゃなく、アスファルトにのめり込みそうなほど暗黒に染まってたから、耳元に吹き込まれたテノールの柔らかさに一瞬灰になった。
なんつーか、ベルベットボイス。つるりと滑らかでいて、適度に重みもあって、光りを纏った明るさも含んでいて。
危うく悪魔に魂を売り渡しそうだったあたしには、イノセントすぎて痛い甘さだ。
どんな天使がこんな美声を発しているのかと、半分閉じかけだった瞼を開いてまたびっくり。
本日お会いした友人のダンナ、憎き風間さんに勝るとも劣らない美貌の持ち主だね、こりゃ。
あの人が硬質な、陶磁の美しさを宿しているのなら、このお兄さんは芸術品にまで高められたお菓子のような、優しくて甘い風貌をしている。
自他共に認める面食いとしては一目惚れセンサー振り切ってるんだけど、ショッキングな出来事の直後なのせいで好意より先に警報が鳴った。
美人は危険。美人は危険。美人は危険。
心配そうな顔してくれてるけど、信じちゃいけない。これはキャッチセールスとかネズミ講とか、自分に利をもたらすためあたしを利用しようって人に決まってる。そうじゃなきゃこれほどのイケメンが、平凡で得意技が埋没ってな女に声かけたりするわけないんだ。
「あります。ありがとうございます。ではっ」
礼には礼を。きっかけ作りのために示された善意とはいえ、厳しい母の躾を受けている身として御礼は当然言うべきでしょう。
警戒を解かず素早く頭を下げたあたしは、人並みに紛れるため大股に一歩踏み出したのだけど。
「嘘はダメ。ね、ちょっと付き合おうよ」
はしっと捕まれた二の腕に前進を阻まれ、返事なんかするまもなくあれよあれよと螺旋階段に追いやられちゃったんだけども。
「嘘じゃないですっ!いろいろホント間に合ってます!」
手すりを掴んで抵抗するくらい、しますとも。
布団も壷も水も、なんも欲しくはないものさ。確かにちょっぴり不幸だけど、向こう三年続いたりする長期スパンを見越してはいないし、一晩ぐっすり寝たらダメージ半減くらいは確約できる、そんなだから。
「かもね。でも、自分が気づいてないだけで、足りてないものって意外とあるもんだよ」
ひょいっと子供にするみたいに片腕であたしを抱き上げた彼は、眩しいくらい爽やかに笑って断言するんだ。
不覚にもその見事な笑顔に見とれてしまった隙をついて、ずんずん階段を上がられたあたしは敗者です。
「いや、もう、壷はいらない〜っ」
叫んでも、どっかに続くドアを開けて傷心娘を悪の秘密結社に連れ込んでしまったお兄さんを止められなかったからね。


「いらっしゃいませ〜」
男女入り乱れた歓迎のお言葉を聞きながら、思い出していたのはクーリングオフの方法。
縁がないと思っていただけに、細部が思い出せないぞ、この法律。一番いいのはやっぱり、解放されたらそのまま警察に駆け込むことだよね。
お母さんにばれたらしこたま怒られるだろうしなぁ、早く手を打たないと…あ、もしかして未成年の契約はできないとかそういう決まりあったかも知れない。
めまぐるしくそんなことを考えて、できるだけ周りを見ないようにしていたあたしは、ふと気づく。
部屋に充満するこの匂い、覚えがある。
そうそう頻繁に遭遇はしないけれど、比較的コンスタントに嗅いでいない?複数の香料と軽いアンモニア臭…もしや。
「わかった?」
すとんっと下ろされたのは、普通の椅子よりちょっと作りが頑丈な…シャンプーするための椅子。正面には大きな鏡と椅子に座るお客さんに髪を切る人と来れば。
「美容院!」
「大正解」
素早く無駄のない動きであたしの首にタオルとケープを巻き付けていたお兄さんは、より美貌を際だたせる微笑みを浮かべて良くできましたと、髪を撫でた。
大きくて、耳にちらっと触れた指先がひやりと冷たい。意識するほどの接触じゃないのに、なぜだか肩が小さく跳ねる。
「…どうかした?」
覗き込まないで、ほしい。いかがわしい勧誘だっていう疑いが晴れたら、お兄さんはただの美人で、気をつけないとときめいちゃうじゃない。
不用意に近づいたり、凶器に近い微笑みを振りまくのは、せっかく危険だと張り巡らせたバリケードに、穴を開ける行為だ。普段のあたしならいざ知らず、現在のあたしはそんなことを望んでいない。
だって、綺麗な男は危ないと、改めて早希のところで認識してきたばっかなんだから。
「いえ、あんま持ち合わせないので、いきなり美容院とか連れてこられても困るなあと、思ってたんです」
感情を上手く隠したよそ行き笑顔に、半分ウソ半分ホントの困惑顔で対抗して、どきどき煩い心臓をねじ伏せる。
早希みたいに劇的な恋は、そこここに落っこちてるもんじゃないからね。
現にお兄さんはバリバリ営業スマイルで、いきなり店内に連れ込まれシャンプー台にセットされちゃってるあたしは、見ようによっちゃキャッチに捕まったのと変わりないもの。社会人にはたいしたことない美容室代も、しがない学生には大きな出費なんだから。
ところが彼は、そうやって人が必死に張った予防線をいとも容易く切り崩す。
「そんなこと、気にしないで。オレが連れてきたんだよ、お金なんか取らないって」
爽やかに笑い飛ばしたわね。ついでにどさくさ紛れで倒すよって、ひっくり返されてなんかもう、まな板の上の鯉気分。
「店長、シャンプーなら僕が…」
横からのありがたい申し出をあっさり断ったお兄さんは、お決まりの紙切れを顔にかける前、少しだけ真剣な顔で混乱するあたしに答えをくれた。
「心の中は洗えないけど、頭を洗うとちょっとさっぱりするよ」
…そうか。地面にのめりそうなダークな通行人に、同情してくれたのか。励まし方として意味不明ではあるけど、人の親切というのはなんとなく、心に染みるモノだわ。
「……ありがと、ございます」
紙切れに完全に視界を遮られたことを確認して、水音に紛れる前、小声でお礼を言った。


確かに、すっきりした。
ただ地肌の汚れが取れてシャンプーのいい香りがして、ふわふわに乾かして貰っただけだけど、なんでだか気分は浮上したもん。
お客さんから冷た〜い視線の集中砲火浴びていたのは気になったけど、その理由は翌日学校で明らかになったしね。
「サニーデイズの佐久間さん!!しかも携帯番号付き!!」
またおいでと、渡された名刺を見せたら友人達から悲鳴が上がる。
「え?有名人?」
確かに美人な美容師さんではあったけど、店は至って普通の大きさだったし、言われればお客さんもすごい待ってた気がするけど、あれ全部お兄さんをご指名だとは思えないけど。
しかし、首を傾げながらそんな風に理由を述べたら、潰された。3人だったかな、4人だったかな、情け容赦なく乗っかりやがって!
羨ましいとか、知らないし!基本、あたし拉致られてんだけど!
「雑誌とかめちゃめちゃ顔出てるじゃん!ほら、ここにもある」
押しつけられたカラーページには、成る程つい先日お会いした美しいお顔がでかでかと…載ってるねぇ。ほう、人気美容師佐久間(いつき)さんが教えるモテ髪ねぇ。予約は二月先までいっぱいって、そんじゃお金払ってもなかなかお会いできない人って事か。
「ふ〜ん、お忙しぃ、だったのね」
呟いて、そういや自分がシャンプーすると言ってきた若いお兄さんは、困惑顔してたなとか余計なことを思い出した。
道端で親切にしてくれた人はなかなかの人気者で、自分はその好意にうっかり乗っちゃまずかったんだと、今更ながらお客さん達の敵意の理由に思い至る。
「…あたし、お金払ってないんだけどさ…」
まずい?冷や汗かきながら聞いてみたらば、再度潰された。今度はね、確実に6人は乗ってたよ。
口々に非常識とか信じらんないとか物知らずとか罵られたんだけど、親切の押し売りを素直に受け取ったらばここまで非難されるって、なんか悲しくなってきたぞ。
変われとか言ってるヤツまでいたけど、そんならば親友に3年越して嘘つかれるトコから初めてほしい。ああそうさ、よれよれのボロボロになって人気美容師に拾われたらいいよ。そしたらば禍福はあざなえる縄のごとしだってわかるだろうさ!
「ともかく!今更お代は払えないだろうから、菓子折でももってお礼に行きなさいよ!」
え〜っ。
「そうよ!佐久間さんクラスの美容師にシャンプーして貰おうと思ったら、千円二千円じゃきかないんだから!」
うっそ〜、たっか〜い。
「きっとあんたのせいで予約客が1人2人迷惑を被ったはずよ。謝って当然でしょ!」
なんでよ〜向こうが勝手にやったことなのに。
「わかるけど、また行くのは下心あるみたいだし、ヤダ」
あれから、まだ10日しかたっていないんだし、なによりそんな忙しい人を呼びつけてわざわざ菓子折押しつけるのは、かえって迷惑なんじゃなかろうか。
だけど、常識バリバリなあたしの意見はあっさり無視されることとなる。
「「「行くのよ!そんで、私たちの予約を取ってきて!」」」
無論、やつらの上に遠慮無くダイブしてやったに決まってるじゃないの。
自己中の、ミーハーあんぽんたんどもめっ!


けれど、お礼はいっとくべきだろうかとか、真剣に考え始めたのはファッション雑誌にチラチラ見える顔と店名のせいで。
冗談じゃなく、有名人なんだもんな。半端なく、忙しそうなんだもんな。
今月だけで3誌、佐久間さんもしくはサニーデイズを扱ってる記事を見つけて決めた。なんか、持ってこう。こう、高級そうな…お茶菓子。休憩時間にスタッフさんみんながつまめるようなヤツ。
そう意気込んで街に出たまでは良かったけど…当てがない。全くない。さっぱり無い。
だって、思いつかないじゃない。男の人が食べられる程度の商品。そりゃね、甘ったるい物なら任せてほしいわけで、シュークリームでもケーキでもあんみつでも、お望みの物を調達できますよ。
だけどさ、男性向きのお菓子って、聞いたこと無いでしょ?だからって明らかなに佐久間さん個人に対するお礼とか持ってったら、本気で気があると思われそうだし。
考え込んで、はたと気付く。
別に佐久間さんは悪い人でなかったんだから、恋愛対象にしたっていいんじゃないかと。お得意の一目惚れから不毛な片思いってお決まりのパターンを歩いたとて、誰にも咎められない、良心も痛まない。憧れてるんですって言うなら、なお可。
…やめとこう。あんまりにも世界が違いすぎるから、アイドルを追っかけてる気分になってきた。
高すぎる山は麓から見上げるに限るって確認すると、良いことを思いついたあたしは携帯のメモリを呼び出していた。


ちょっと、緊張してますよ。この間へたれていたのと同じ道、同じ場所だけど、あてもなく放浪してる訳じゃなく、待ち人がいますから。
お店に電話しようか、携帯か。散々悩んだけど、お客としていく訳じゃない、お礼を渡すだけだからと、妙に落ち着かない指先で番号をプッシュした。予想通り、平日3時じゃ本人が出るはずもなく、無機質な留守録メッセージが応答してくれる。
『あ、の。この前お世話になった、佐藤紅子です。シャンプーありがとうございました。つきましては、そのお礼をお渡ししたいので、都合のいい時間を教えて下さい。では、失礼します』
初対面、キャッチセールスと勘違い当時の口調に比べれば、雲泥の差ってところだけど、使い慣れない敬語はやっぱりたどたどしい。
後数年したら社会人なんだし、この機会に恥をかかない日本語の勉強でもしようかなとか、思っちゃう程度に汗をかくメッセージに、それから数時間で佐久間さんは返事をくれた。
『明日で、いいのかな?紅子ちゃんの都合がつくなら6時にこの間の店の前で、どう?』
良いに決まってるじゃないの。ちょっとお礼を言って、菓子折を押しつけたらすぐに退散するんだから。
ええ、それで是非。
短く同意してバクバクしながら電話を切ったのが、丁度24時間前だ。
時間というは、早いもんだね。あんまり気合い入れたと思われない、それでいて有名人にあっても恥ずかしくない服を選んで、早希に頼ってみたお礼の品を確認して、授業に出て電車に乗ったらあっという間に約束の日時だもの。
ああ、あと5分。4分59秒、58秒、57秒…。
「待たせちゃった?」
デジタルウォッチと睨めっこしていた背後から、耳元に囁きかけるってもう、嫌がらせとしか思えないんですけど!なんすか、あーたっ!
「ん、なっ!」
驚いたのなんのって、前のめりに数歩飛び出したあたしは、耳を押さえながら声にならない声で抗議をしてみたんだけど、
「…なんか、傷つくな」
しゅんっと、まるでこっちが苛めたみたいな顔されたんじゃ、どっちが被害者だかわかりゃしない。確実に、悪いのあんたでしょうがっ!
いや、いや、落ち着け。今日はお礼を言いに来たんであって、喧嘩を売りに来たんじゃない。つーか、早希じゃあるまいし、あたしはそんな短気ではないはずだ。
悪びれない美貌に恨みがましい視線を送っちゃったのは一瞬のこと、すぐにとってつけたような作り笑いを浮かべてメインイベントに移れるだけの余裕が、まだある。
「すいません、ついびっくりして。あ、先日はどうもありがとうございました」
「いえいえ。たいしたことできなくて、ごめんね」
ぺこりぺこぺこ。由緒正しい米つきバッタの国、日本に生まれたからにはお礼で頭を下げるのは当然のこと。
後はこのばかでっかい紙袋を押しつけたら…
「そこで、俺は考えたんだ」
押しつけ…ええ?
「もっと紅子ちゃんを元気にしてあげたいなって」
や〜もう、すこぶる元気ですが?
「零れるような笑顔がみれたら、嬉しいじゃない」
そりゃあ、そうでしょうけど…?
「せっかく、誘ってもらえたんだし」
いえ、別に誘った覚えないですよ?
「いいところへご招待するよ」
大人しくこれをもらってくれたら、どこへもご招待いりませんが??
「え〜と、ここでお別れで全くかまわいないんですけど」
「遠慮しないで」
「や、遠慮してないです。本音バリバリです」
「子供は、大人の好意を素直に受けなさい」
「子供違うから。もう、19になるからさ」
「未成年は、子供でしょ」
「そら、屁理屈ですって佐久間さん」
「大人の詭弁は、子供の我が儘に勝るんだよ」
「なんだその、聞き慣れない格言は!」
「雰囲気、雰囲気。さ、行こう!」
「行かないって!つーか、ちょっと話を聞け!!」
あたし、人生に二度目の拉致を経験中です。
子供みたいに人を横抱きにした佐久間さんは、間違いなく計画的犯行を狙っていた模様。路駐した車に易々と憐れな子羊を押し込んじゃったからね。
厄日か…。


佐久間さんは、上機嫌だ。
ここがどこかって?都会の絶景が堪能できる高層マンションの明らかに高級だとわかる一室で、人気美容師の自宅である。
カーテンもついてない(こんだけ高けりゃ覗かれる心配ないもんね)リビングは、高所恐怖症の人なら泣いて逃げ出したくなること請け合いだけど、そんな場所であたしはママカットのような格好をさせられてんだ。
ママカットが何かって?ほら、あれ。保育園児とか自分の身なりに構う気配もない幼少期、それをいいことにお母さんが好き勝手子供の髪を切っちゃう、あれですよ。
ここに連れ込まれると一緒に、カウンターキッチンから引きずってきた安定の悪いスツール(床につく傷はいいのか…)に座らされ、ケープを掛けられていきなり始まった即席美容室。
「この間、気になってたんだよね。がたがたのカット」
人の髪をつまみ上げるなり、失礼極まりないことを爽やか笑顔でのたまった佐久間さんは、プライベートルームからこちらも引きずってきた姿見(だから、床の傷は…)越しにあたしをじっと見る。
「オレがやり直したら、ダメかな?」
この状況で、今更確認取るか、普通?
「シャンプーでもわかったと思うけど、髪型替えるだけで気分も変わるよ?」
そりゃ、女の子ですもん。知ってますよ。
「紅子ちゃん、元気になるから、絶対」
元気ですって、今、充分。
悪態をつきながらも、あたしは知ってるから強攻策をとれずに困ってるのだ。
基本、いい人なんだよ、佐久間さんは。かなり自己中で全く人の話を聞かないけど、それらは全部善意の賜。決して私利私欲や、さもしい欲望を原動力に動いてるわけじゃない。
19年生きてきて、初めて見たパーフェクトな美人に抵抗できるはずもなく、ときめいてはいけないと止めることすらできず。
「…お願いします」
取り敢えず、髪を切ってもらうことにした。
鏡越しに、美貌を堪能できるチャンスだしね、これで次回会うことができなくなるとしても、嬉しい思い出になるしね、いいじゃないってことで。
「了解。長さはできるだけ変えないようにするからね」
嬉々として頷いた佐久間さんは、背の半ばを越すほど伸び放題の髪を持ち上げて一言。
「え、別にベリーショートとかにならないなら、切っちゃっても…」
「ダメ。紅子ちゃんには、ロングが似合うからね」
「…はあ」
それは知らなかった。
あたしだって自分に似合う髪型とか長さとかいろいろ研究していたつもりだったけど、長いのが、ねぇ。ただ何となく伸ばしてただけなんだけど、ねぇ。
「じゃ、始めます」
本当は洗った方がいいんだけど。そんな風にいいながらまんべんなく髪を濡らし、どっから取り出したのかはさみを入れ始めた佐久間さんは、文句なく格好良かった。そりゃもう、口開けて見とれちゃうほどに。
いや、男の人の真剣な顔ってただでさえいいのに、美人がやるとより一層、絵になるんだねぇ。
カシュカシュと髪が金属に削がれていく、それを作り出すのが細くて長い佐久間さんの指で。
手の動きにドキドキするなんて、どことなくフェチくさくて背徳チックだ。
そういえば何かに固執する、執着するって感情は人間がもってるごく普通の感情なんだろに、最近は妙なジャンル分けができたせいかオタクとかマニアとかで括られて、市民権得てるよね。
でも、フェチはやっぱ変態の部類かな…?
「おとなしくなっちゃったね、随分」
リズミカルにはさみを滑らせながら、佐久間さんは己の性癖と向き合っていたあたしを覗いてクスリと笑った。
「あ、ははははは…そう、ですね〜」
まさが、貴方の手が素敵で見とれておりましたとも言えず、その場をへらへらして誤魔化して、無難な話題を探さねばと焦る。
黙ってると、思考がやばい方向にぶっとびそうなんだもん。
「え、その、なんでお店でカットじゃなく、自宅?ですか」
とっさに出たとは思えないナイスな質問は、実は彼が何をしたかったのかわかってからずっと抱えていた疑問。あっちでやった方が、後始末とか道具とか便利だったはずなのに、わざわざ自宅で不便をしなくても、って思うじゃない。
「ああ、オレが飛び込みの子とか担当するとスタッフも不審がるし、お客さんも機嫌悪くなるしでね。でも、せっかく紅子ちゃんから連絡くれたんだから、どうしても髪をいじらせてもらいたかったんだ。それなら、自宅へ連れて来ちゃえって」
にこにこにこにこ、邪気なく笑ってくれるけど、お店でできない理由はわかったけど、連れて来ちゃえってあなた…そこにあたしの意志はひとかけらも入ってないじゃないですか。
「断られるとは、思わなかったんですか?ろくに面識もない男の人の家にまでついてくるわけないとか、考えなかった?」
ちょっと、呆れていたのだ。
だって、すごい自信でしょ?普通の人はまず、うまくいかない結果をいくつも思い描いて、可能性を探っていくものなのに、佐久間さんは少しもそんなこと気にしていない。自分の思い通りにことが運ぶって知ってる、そんな顔して話してる。
視線だけで美貌を見上げると、やっぱりうんて頷くんだ。
「紅子ちゃん、実は押しに弱いじゃない。この前もそうだった。さんざんごねていたのに、いざシャンプー台に座らせたら素直になっちゃって…可愛いよね」
「…ほぁ?」
それは、瞬きするほど短い時間だったけど。
最後の一言を口にした彼の表情が、妙に艶めいていて、心臓を踊らせて、あたしの口からはなんとも間抜けな声がこぼれたのだ。
顔だって間抜けて見えるに決まってる。茫然自失してても、きりりとシャープでいられるはずないからね、あたしが。
なのに。
『チュ』
不吉な、音がしませんでした?
気のせいじゃなきゃね、ほっぺたに佐久間さんの長めの前髪が触れたような。
視界がぼやける顔のどアップを見たような。
唇に柔らかな何かが…正体がわかっていても認めたくない何かか押しつけられたような。
「はい、ちゃんと前向いてて。ちゃちゃっと、切っちゃうからね」
下から彼を見上げていた首が強制的に元に戻され、鏡の中に見た犯人は殊更陽気で腹立つほどで。
………なんすか、一体?



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