俺を起こすのが目覚ましから小さな手に変わったことは、嬉しい変化だ。
 
       「パパ、ご飯できたってママが怒ってる」
 
       既に着替えを済ませたアスカが声を潜め、僅かしか離れていないキッチンで小さな悪態をつ
 
       く美月を示して見せた。
 
       成る程、窓際に敷かれた俺の布団以外は綺麗に片づき、小さなテーブルでは食欲をそそるみ
 
       そ汁が湯気を上げている。
 
       「困ったな、また寝過ごしたぞ」
 
       「そうよ、パパすっごくお寝坊なんだもん。アスカ保育園に遅刻しちゃう」
 
       今までこんなことはなかったのに、結婚を約束した親子と半ば同居の様な生活を始めて俺の
 
       起床時間は随分遅くなった。
 
       責任は増したはずなのにそれに勝る安心が満たしている。気は緩み、如実に変わったライフ
 
       スタイルが心地いい。
 
       不機嫌な奥さんを(実際には婚約者だが)これ以上刺激しないよう、共同戦線を張ったアス
 
       カとキスで買収して小さなバスで身支度を済ます。
 
       スーツに寝癖を撫でつけ消した髪、銀のフレームのメガネをかければ食えない上司の登場だ。
 
       「…俺と違って、美月はだいぶ雰囲気が変わったな」
 
       子供の世話を焼きながら共に食卓を囲む彼女は、そう?と笑う。
 
       アスカと同じくせっ毛は柔らかな弧を描いて波打ち、薄化粧は同じだが実用一辺倒のメガネ
 
       が顔から姿を消した。
 
       「課長が送ってくれるから、バスの時間を気にしなくなったでしょ?時間があるなら多少身
 
        なりに気を使えるの」
 
       だから髪を下ろしたと?だからコンタクトを入れるのだと?
 
       それがどれほど俺の心労を増やすか、考えたことはないのか。社内で君の評判が変わったこ
 
       とに気づいていないのか。
 
       さすがに気まずいと主張する美月の意見を尊重して、適当な場所で別れた後デスクについた
 
       俺には不快なさえずりが聞こえる。
 
       「なあ、乃木女史って若かったんだな」
 
       「確か24だろ?充分射程圏内じゃん」
 
       「おまえらちょっと前まで小局とか言ってたじゃん」
 
       「まーなー、口うるさいのは変わんないけど、見てくれは合格ラインだろ?」
 
       「最近いいよな。メガネ取ったら結構可愛いし」
 
       男など、こんなものだ。所詮女を見る基準は容姿が9割を占めると平気で公言する、単純な
 
       生物だ。
 
       だからこそ、美月はそのままでいれば良かったのに。お前の素顔は俺のためだけにあればい
 
       いものを。
 
       「おはようございます」
 
       就業時間1分前、噂の女は現れた。私生活のどんな変化も、社内で作った彼女のルールを曲
 
       げることはない。
 
       髪留めで緩く纏めた柔らかな波だけが朝と違う美月は、お決まりの挨拶だけで早速仕事を始
 
       め、硬質な空気で無能な男性社員を拒絶した。
 
       「乃木さん、今度君の歓迎会を…」
 
       「いりません。そんな時間があるのなら、書類を提出してもらえませんか」
 
       勇気のある社員は返り討ちに合う。
 
       「そういわずにさ、親睦を深めるのも…」
 
       「仕事に対する理解を深めるのが先だと思いますが?清書を頼まれましたこれ、用語の間違
 
        いが多くて直し切れません」
 
       尻馬に乗った男は、分厚いおみやげを渡されてすごすご逃げ帰った。
 
       見かけが変わろうが、美月は美月なのだったな。余計な心配をする俺はまだ、彼女に対する
 
       理解が甘かったようだ。
 
       自分だけ特別であるという自負で知らず緩んだ頬のまま、有能な部下に歩み寄る。
 
       俺は、奴らと違うんだ。
 
       「乃木君、経理への提出書類だが作成は終わっているか?」
 
       「…昨日の内に差し上げたはずですが?仕事に集中なさっていないから、下らない質問をす
 
        るハメになるんじゃないでしょうか」
 
       ……一撃必殺だな。言葉の刃と一緒に氷の視線まで飛んできた。
 
       曰く、だらしのない顔をなんとかしろと。
 
       そう、忘れてはいけない。彼女は何が何でも公私混同をしない、優秀な存在であると。
 
 
 
       「ただいま」
 
       「おかえりなさい」
 
       「遅いよ、パパ!」
 
       だから、帰り着いた古いアパートで、優しく微笑む美月と飛びついて甘えてくるアスカが愛
 
       しい。一歩仕事を離れたら、彼女は俺だけのもの。どんな失態も笑って許してくれる家族と
 
       いうコミュニティを包む暖かな人。
 
       「今日はね、オムライスなの。アスカがケチャップでハート書いたんだよ」
 
       抱き上げた愛娘の楽しいおしゃべりを聞きながら着替えを済ませ、帰りの遅い俺を待って食
 
       事をしていなかった二人にキスを送る。
 
       「待ってる必要はないんだぞ。腹減ったろう?」
 
       「いいの、一緒に食べたかったんだもの」
 
       子供メニューとは別に用意された煮付けが美月の人柄を表していた。
 
       良くできる女、気遣いのできる女房。どちらも手に入れられて、こんなにも幸せだ。
 
       約束通りアスカを真ん中に眠るから、柔らかな彼女を抱きしめられるのはほんの僅かな時間
 
       だが、不満はない。
 
       「おやすみ、美月」
 
       「おやすみなさい。明日は早く起きてね」
 
       ああ、どうしてだろうな。こんなに早く眠るのに、俺はきっと明日も起きられないんだろう。
 
       居心地が良くて、ここはなんとも安らげるから。
 
 
 
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