古い日本家屋の小さな平屋、猫の額ほどの庭を望む縁側のガラス戸は細く開いている。
学校帰りの蜜は弾む足取りで玄関脇を抜けると、遠慮がちに大仰な音を立てるそれをノックして随分仲良くなった住人を 呼んだ。
「こんにちわ」
薄暗い室内へ投げられた決して大きくはない声に反応はすぐ返り、人影は静かに引き戸を開ける。
「いらっしゃい」
低い鴨居をひょいっと避けて現れたのは、むさ苦しいとしか表現しようのない男。
くたびれたポロシャツと洗いすぎたジーンズ、伸びすぎた髪と無骨なセルフレームのメガネに無精ヒゲ 姿は下手をすると変質者、良くてニートといったところか。
中学生の蜜が会いに通う相手としては大いに問題があるように思うのだが。
「今日は暑いですね」
ぺたっと板の間に腰を下ろした少女は、気にした風もなくにこりと彼を見上げている。
「そう?中にいるとよくわからないな」
まばらなあごひげを撫でながらレンズの下の目を細めた男もやはり、年若い客に驚くこともなく隣りにアグラをかいた。
呑気な空気が遅い午後の時間を更にゆっくり動かして、2人の間をのんびり流れる。
29才と14才。彼等は恋人同士ではない。
年が邪魔しているとか、倫理観がなどという俗っぽい理由ではなく、ただ一緒にいると心地いいから時を共有する、 それだけの間柄。
秋夜(あきや)さん、夜行性だから」
「うん、実はさっき起きたんだよね」
「原稿、できたんですか?」
「なんとか。これで当分ゆっくりできる」
自称、三文小説家はもつれた髪を掻き回すと、初夏の空に大きく伸びをしてしばしの開放感を楽しんだ。
締切が迫っていようと暇だろうと、この穏やかな時間を過ごすための努力は惜しまない秋夜だが、やはりすべき事を片づけ たからこそ得られる安らぎは格別である。
「蜜さんが来てくれるようになって、仕事が早くなったって編集さんに褒められるんだよ」
かち合った目に微笑みをくれる彼に、じくりと痛んだ小さな胸。
「私でも、お役に立つことあるんですか?」
傍目に見たら、邪魔をしているようには見えないのだろうか。
いつだって優しく迎えてくれる秋夜は否やを言わないから、だからこそ小さな不安を抱えることだってある。
探る視線に、だけどやっぱり彼は首を振るばかりなのだ。
「うん、いっぱいあるよ。…そう、何かお礼をしなくちゃいけないくらい」
本気、だろうか。ああ、本気であろう。
真剣に考え込んでしまった秋夜に、蜜から痛みは消え去った。
「じゃあ…アイスクリーム食べたいです」
些細で、可愛らしくて、彼女らしい望み。
旧型冷蔵庫の中で眠っていたミゾレはカチカチで、スプーンも通らなかったけれど、のんびり溶けるのを 待ちながらたわいもない話ができたのが楽しくて。
「さようなら、また明日」
「うん、また明日。気をつけて」
日が落ちる前に手を振るのが、2人とも少しだけ寂しかった。


玄関脇を抜けて、縁側へ。
今日はいつもより遅くなってしまったから、蜜は小走りにその短い距離を抜けたのだけれど。
「…あらら」
心地良い、というにはいささか強すぎる西日に焼かれて、彼の人は眠っていた。
少々歪んだメガネのフレームはつけたまま横になることに抗議して飛び跳ね、いつも伸び放題の髪で隠れている 顔や目元は久しぶりに理容室の恩恵に預かり露わになって、うっすら汗ばんでいた。
起こすことを憚られるほどぐっすりと寝入る姿に、今日は帰ろうかと思いかけて彼女は秋夜の姿にどことない違和感を 覚える。
なくなっているのは、髪ばかりではない。何か、他に、あるべきものが、他に。
「ん?んー?」
そっと忍び寄りしゃがみ込んだごく近く、首を捻りながらじーっと観察して、やっと気づく。
「あー、ヒゲ」
てんてんに生えていた無精ヒゲが、ない。
元々そんなに濃くないせいか、剃ってしまうときれいな肌色を露出しているそこは、なんだか思い切り不自然でちょっぴり 彼を知らない人に見せていて。
こんな特徴的なものを見落とすなんて、随分マヌケだと思いながらも蜜は立ち上がった。
どこかそわそわ落ち着かない気持ちを宥めるように唇を噛んで、迷ったあと今日は帰ってしまおうと決めて。
「また、明日…」
お決まりのセリフを残して踵を返した蜜のスカートが、つんっと引かれる。
「行っちゃうの?」
振り向くとノロノロ体を起こした秋夜が、欠伸をしながら少女を見上げていた。
目を閉じていた時はわからなかった、ヒゲと髪のない顔が妙にキレイに見えて、収まりかけたはずの奇妙に高揚した感情が、 蜜の心臓をどきりと跳ね上げる。
けれど、それは一瞬。
ずり落ちたメガネを面倒そうに押し上げる仕草も、目尻に浮かんだ涙を子供みたいに拭う様もいつもと何ら変わらない 良く知る秋夜だったから、溢れかけの気持ちは急速に縮んで霧散した。
ほらもう、微笑むことだってできる。
「良く、眠ってたみたいだったから、そうしようかなって」
徹夜明けじゃ、ないんですか?言外に問うと、アタリと舌を出した彼は枕代わりにしていたらしい小説を示してみせた。
「面白くてね、ついつい朝方まで読んじゃったから。でももう、起きたよ?」
アイスもあるし、寄っていかない?まだ眠そうではあるけれど、本人がそう言うのだから。
「じゃあ、もう少し。お日様があそこに隠れるまで」
いつもの場所へすとんと腰を下ろした蜜が指したのは、緑成す山の上、沈むまでしばし猶予のある太陽。
「うん」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに破願した秋夜を目の端に止めた少女を襲う、本日2度目の不整脈。
なんなんだろう、今日は。どうしてこんなに胸が騒ぐのか。
「待っててね」
のそり立ち上がって台所へ消える背中を見送りながら、いつもより少しだけ早い胸を押さえる。
理由はわからないけれど、呑気な後ろ姿を眺めていたら苦しいような楽しいような、不確定な気持ちは薄れて消えて。
渡されたイチゴアイスと、夢中で読んだという大作の感想が面白かったから。
開き始めた蕾がまた固くなってしまったのに、蜜はちっとも気づかなかった。


そこを初めて知ったのは秋の終わり、木々がすっかり葉を落としてしまった頃だった。
幾度となく行き来している学校前の坂道がその日に限ってやけに遠くて、回る視界と上がった息に耐えきれず、 へたりとその場に座り込む。
折り悪く今日の蜜は遅刻なのだ。朝からどうも体が重く、けれどどうしても休みたくない授業があったから、1時間 横になって登校した末の出来事。
普段であればそこここに見知った顔があるはずの通学路も、そんなわけで閑散としてうら寂しいのだ。
誰かの助けを借りねば動けそうもないのに、縋る相手さえいないというのはなんと心細いことか。
声を出すのさえ億劫で、深い深いため息をついた蜜は目を閉じて、ままならない現実から逃避する。
今時珍しいくらい逼迫した財政事情のある家庭で育ったため、彼女は携帯電話というものを持っていない。
故に現状を身内にも友人にも伝える術はなく、ただひたすら親切な誰かが通りかかってくれるのを待つばかり。
願わくば、制服女子であれば美醜を問わない変質者や、他人に親切にするくらいなら舌を噛むほど極端な人嫌い ではない人に見つけてもらえますように。ついでに聖人のごとき善意に溢れていますように。
そう、祈ることしかできない。
そして朦朧としながらうずくまること数十分、救いの主は現れた。
「先に宣言しておくけどね、僕はロリコン趣味もないし怪しい人間でもないんだ」
まるっきり言い訳である前置きのおかしさにのろのろ顔を上げた蜜は、言葉の意味を正確に理解したあと妙に納得する。
着古しヨレヨレの衣服と伸ばしっぱなしでボサボサの髪、背が高いせいで威圧感があり怪しさと言ったらこの上ない男が 心配そうな、それでいて不安げな表情をして立っていた。
女子中学生に声をかけるならば、なるほどそれ相応の但し書きをしてからでなければ悲鳴を上げて逃げられること必至で あろう。
ただし、そうしたからといってこの男の不気味さは少しも揺るがないのだけれど、けれど。
「はい、信じます」
なのに、蜜は何とか浮かべた笑みと共にさらりと口にしていた。
それはまさに直感。
彼の纏う穏やかな空気が得体の知れなさを払拭していると少女は判断し、目の前の人物を信頼できると決めたのだ。
蜜の屈託のない素直さに一瞬面食らっていた彼も、すぐに相好を崩すと照れくさそうにポツリ漏らす。
「…ありがとう」
平凡でいて非凡で、秋夜と蜜はそんなふうに出会って。
助けてもらったお礼に手作りクッキーを運んだのは2日後、そのまたお礼にお茶に誘われたのは翌日。縁側で交わした 会話が年の差を乗り越えたフィーリングでぴたりはまって、奇妙な茶飲み友達は今日も集う。

「こんにちわ」
「いらっしゃい」
お茶と笑顔と呑気な話題と、ほんの少しの温かな気持ちと。


秋の日は釣瓶(つるべ)落とし。
まだ残暑も厳しいというのに、夜は刻々と長く深くなり、秋夜との時間を奪っていく。
それが寂しくて物悲しくて、日ごと蜜の口数は減っていて、
「蜜さんに元気がないのは、何故?」
とうとう彼に問われるまでとなった。
「だって…」
穏やかに覗き込む眼差しにぶつかって、少々膨れて紡ぎ出した言葉は途切れる。
昨日より今日、今日より明日と一緒にいられる時間は減るのに、少しも変わることない秋夜。
自分だけが不満で子供みたいな我が儘で沈む気持ちをぶつけるなんて、なんだか少し悔しかったのだ。
「蜜さん?」
「なんでも、ないです」
顔を背けて気持ちを幼稚な感情を押し隠そうとしたのに、柔らかな声が追ってきて逃してはくれない。
彼の人柄と同じで強いることはないけれど、彼女が答えるまで秋夜は根気よく待ち続けた。 蜜が居たたまれずにもじもじと口を開くまで、ずっと、微笑んだままで。
「…だって…」
「だって?」
短くなった髪が隠さなくなった彼の顔は、気後れするほど綺麗に夕日に輝く。
「だって…夜が、長いから」
零してからしまったと、趣旨がわからないではないかと口元を押さえた蜜に、ああ、と納得顔で頷いた秋夜は 考え込むそぶりで首を傾げる。
「うん。秋はね、冬も…蜜さんに会える時間が減っちゃうのは、僕も辛い」
長年連れ添った夫婦みたいだな、などと考えながら彼女はとっても嬉しかったし、幸せだった。
共にいる時間が削られることを嘆いているのが、自分だけではなくて。
彼にとっても、2人一緒の時間が大切だったと知れて。
たわいもないことしか話したりしないのだけど、テストの役にたったり先生に褒められたりすることではな くとも、会えず声も聞けなくては一日が終われないほど蜜にとって秋夜は生活に深く浸透しているから。
「もっといっぱい、一緒にいたいです」
「…そうだね。もっと、ずっとね」
その日から坂道を下って少し、月だったり星だったりを眺めて殊更ゆっくり、2人は帰路を歩くように なった。
手も繋がず、けれど肩は触れそうに近い静かな夜道を。
生まれたての、某かの感情を抱いて。


気づいたことが、ひとつ。
それは自覚した途端大きく大きく膨らんで、あっという間に蜜を苦しくさせる。
少し眠そうな顔が好き。喉の奥で笑う声が好き。優しい目や、大きな手や、聡いところや、全部全部、秋夜が好き。
だから、躊躇う。
あの門をくぐれば会えるけれど、会えば気持ちが溢れるかも知れない。溢れたらきっと、元には戻れないのだ。
子供のくせにと笑われたら、本当の恋ではないと言われたらもう立ち直れないだろう。
冬の匂いが濃くなったこの頃は一層切なくて、今日も蜜は大好きな人に会えないまま踵を返す。


枯れ木だらけになった庭を縁側から眺め、秋夜は随分と久しぶりでタバコに火をつけた。
落日と同じ色の火先が製造する煙を深く吸い込んで、その落ちた味に顔を顰める。
「…しけたかな」
数本残ったこれを抽き出しにしまい込んだのは1年近く前。
『タバコ、吸うんですか?』
見上げて問う表情のあどけなさを大人の毒で汚してはいけないような気がして、以来ピタリとやめたのだ。
あれから彼女との時間は、仕事の息抜きのようで生活の中心のようで。そんな一時を密かに逢瀬と呼ぶように なったのはいつからだったのだろう。
最初は、物珍しさが先立った。がさつな弟等と違い大人しくて可愛いくて、警戒心なく懐いてこられる 妹のような彼女を見ているのが楽しくて。
まさか、馬鹿なと笑いながら、抜き差しならないところまで嵌り込んでしまった後は、自分と同じ好きに 蜜が堕ちてくれるまで辛抱強く待っていたつもりだったのに。
「嫌われた…?」
ここ数日、ピタリと姿を現さなくなった彼女に、不安が募る。
なぜ?上手く隠していたはずの浅ましい恋情が露呈して、怯えさせてしまったのだろうか。
記憶を辿っても、冴え冴えと輝く月の下、手を繋いで別れを惜しむよう微笑んだ蜜しか思い出せない。
胸の温かくなる、笑みしか。
「…輪っか、作れますか?」
己のうちに深く沈んでいた秋夜を一瞬で引き上げた涼やかな響きが運んできたのは、恐怖。
もし、幻聴なら?振り返ってそこが暗い虚ろだったら?
殊更ゆっくり首を巡らすのは怯えているからで、薄闇に少女を認めた時、秋夜は無意識に止めていた 息を吐き出した。
「作れるよ。…見たい?」
動こうとしない蜜を手招いて、にっこり笑ったのは彼の賭。
彼女が頷いてくれなかったら、近づいてくれなかったら、この恋は芽吹くことなく凍るのだ。永遠に。
「見たい、です」
心臓が止めていた動きを再開したのは、密が一歩踏み出したから。
さくりさくり、枯れ葉を踏みしめながら、2人の距離が縮む。


門を潜るには、14年生きてきた中で一番の勇気が必要だった。
何度も躊躇い、坂道を行って降りて、太陽が地平に隠れるころやっと、庭先に抜ける小道を踏み出せたのだ。
一歩一歩ゆっくり、歩き慣れているはずなのに未知の場所を進んでいるようで。
うまく、隠し通せるだろうか。いつもみたいに笑える?恋をしていない蜜だと、信じてもらえたら。
けれどそんな不安は、縁側でタバコをくわえる秋夜を見たらキレイに消えてしまった。
初めて見る姿、知らない秋夜の表情が夕日の名残にぽっかり浮いている。まるで幼い自分を否定するように、冷たい 無表情をして。
(や、だ…置いていかれちゃう…)
なぜそう思ったのか、無性に恐くてどうでも良いことを口にして彼の意識をこちらに引き寄せたのは、本能の為せる技。
「…輪っか、作れますか?」
呑気な声とは裏腹に、早鐘を打つ心臓は蜜の胸を破る勢いで走っている。
仰ぎ見る秋夜が微笑んでくれるまで言いしれぬ恐怖に戦きながら、じりじり時間を辿ってひたすら待った先に、
「作れるよ。…見たい?」
変わらぬ、彼だった。
一年と少し見続けた表情、常と同様ゆったりとした仕草、少年のような笑顔。
さっきに見たのは幻で、2人の間に流れる時間はなんの変化もないと安堵して、手招く指先に踏み出す。
「見たい、です」
落ち葉を砕く音さえ楽しく、横たわる問題などキレイに忘れて、あと数歩で指定席へ、秋夜の隣へ。
「蜜さん」
硬質な声に、途端、空気が凍り付いた気がした。
さっきより近くなった彼が見知らぬ美貌を湛え、ピタリと動きを止めた蜜を静かに見つめている。
嗚呼、その真剣な表情に潜むのは、一体どんな感情か。
やはり、秋夜に気持ちを隠し通そうなどと浅慮に過ぎて、なにもかも見通した彼は言うのだ。
『身の程を忘れては、駄目だよ』
あの大人の顔で薄く笑われたら、くずおれてしまうかも知れないと蜜は震える。
秋夜がそんな無体を吐いたりしないと知っていても、萎えた足はもう踏み出せず、彼女はつと視線を足下に泳がせた。
「僕が君を好きだと、困る?」
思いもかけない言葉は、理解できるまでに時間を要す。
「友達の好きじゃ、ないよ?抱きしめて、口付けて…そんな好きだ」
じわりと染みこむ、まるで麻薬のような。
夢から覚めるのを恐れるように、蜜はのろのろと顔を上げ、ほぼ闇に溶けてしまった秋夜を、それでもはっきり輝く 瞳を見つめた。
夢ではないと、確かめて。
「困ら、ないです、絶対。…秋夜さんこそ、困らない?私が、子供で」
「ははは、まぁ、ちょっとはね。でも、大人には理性があるから大丈夫」
ちょいっと再び手招かれ、自由を取り戻した蜜は今度は躊躇うことなくいつもの場所へすとんと腰を下ろす。
それは肩の触れる微妙な距離。いつもより近くて、でも恋人と言うには遠すぎる。
けれど、2人にとっては丁度いい、そんな距離。
「明日も、晴れるかな?」
「きっと」
星が無数に瞬く、世界にとってはいつもと同じ夜だけれど、彼等にとって特別な、特別な、夜。


「先生、聞いてます?ねえ!」
「うん、聞いてるよ」
ピンストライプのダークスーツに臙脂のネクタイ、後ろに撫でつけた髪も細いチタンフレームのメガネも、常の秋夜からは かけ離れた姿であるが、隣で騒ぐ女編集者はそれを知りもしないのだろう。
煩わしさを我慢してやんわり腕にかけられた手を外すと、彼は豪奢なロビーを抜けてくるはずの姿を捜して背伸びする。
「もう!早くしないと授賞式が始まってしまうんですってば!先生が主役なんですよ?」
「わかっているよ」
なんとかいう大層な賞に輝いて、いついつの予定は開けておいてほしいパーティーがあると言われたのはまだ、一月前の 話しだ。いくらなんでもその内容を忘れるほど脳の働きは悪くないし、今だって時計くらい読めるのだから時間がないことも 理解できる。
だからこそ、彼は首を傾げるのだ。
「でも、まだ15分ある。打ち合わせは既に終わっているんだし、開会直前まで僕がここにいても、誰も困らないだろう?」
「それは…そうですけど」
ばつが悪そうに口ごもる彼女の目的など、分かり切っていた。
秋夜は他人に興味がない。人にどう見られようがどう思われようが、基本的に自分がよければ問題ないと思っている自己中 心的人間である。
だからといって人の心の機微が読めないほど鈍いわけではないのだ。むしろそれらがわかりすぎるからこその人間嫌いで、 世捨て人なわけで。
地位も名誉も金も持っている男を獲物と見定め、手に入れようと手ぐすね引いている着飾りすぎた女など隣りに立たれるのも いやだ。まして、彼の邪魔をしようなど許し難い。
「私は…」
感情が顔に出ない秋夜の本音を読み取ることもできない彼女が、再び伸ばしてきた指をするりと交わした彼は、待ちかねた 人物の姿を遠くガラス張りの向こうに見つけて微笑んだ。
「失礼」
もう、我慢の必要はない。面倒な説明をしなくても、手を繋いでいれば無粋なことをする輩はいないはず。
「遅れて、ごめんなさい…っ」
駆け寄って歩きづらそうに裾を捌く少女に手を貸すと、秋夜は呆れるほど派手に相好を崩した。
「蜜さん、すごくキレイだ」
朱色の振り袖に身を包んだ彼女は、日本人形のように清楚な美しさがあって、できるなら秋夜はこのまま家に帰りたいと 切に願ったほどで。
誰にも見せたくない。せっかく着飾ってくれた蜜と、手を繋いで月光の下、散歩できたらどんなに楽しいか。
とりとめない話しをして、くすくす笑い合って、あの古い家の小さな庭で、甘く優しい口づけを交わして、そして…。
「本当に?変じゃない?私、ドレスなんて持っていないから、お姉ちゃんの成人式の着物、借りたんです」
秋夜の暴走した思考を止めた不安げな声に、似合ってるよと微笑んで彼はいつものように手をさしのべた。
「行こうか?ちょっと挨拶したら終わりだから、そうしたらどこかでご飯を食べて、家に帰ろう」
「…はい」
はにかんで微笑む少女と連れだって会場へ消える後ろ姿は、今日、自分が主役だと言うことなどすっかり念頭にないこと 請け合いなのだ。
そして、もう1人。完全に忘れ去られていた女編集者はギリッと唇を噛む。
インテリヤクザの如き男と、あどけないお嬢様風の少女。実態はどうあれべったりくっついた2人は傍目にどうも犯罪くさく 写るのであるが、当人達は気にするわけもなく幸せ全開ではないか。
「なによ、あれ。恋人同士にしたって、大っぴらに関係公表して大丈夫な年の差なワケ?」
「大丈夫だよ」
悔し紛れの独り言は、聞き止めた好々爺によって返事をされてしまって、振り向いた彼女は凍り付いた。
「へ、編集長!」
職場の最高責任者は、常と変わらぬ微笑みを湛えて相変わらず容赦なく厳しい現実を突きつけるのだ。
「彼女ね、彼の奥さんだから。一年日参して奥さんの御両親を根負けさせて、16になると同時にお嫁に貰ったんだよ。 いやぁ、あれは良い結婚式だったなぁ…。ま、そんなわけで、先生を怒らせて書いて貰えないなんて事になる前に、 諦めるんだねぇ」
業界じゃちょっと有名だよ?
楽しそうに古くさいウインクをされても、そんな逸話を入社1年目の彼女が知るはずもない。
さっき初めて会ったベストセラー作家があんまりにも条件ぴったりだったから、粉をかけていたに過ぎないのだ。しかし、 妻帯者とわかれば、ましてあれほどの愛妻家とわかれば、勝ち目のない勝負はしない主義の彼女。
「そうします」
他に独身作家は山といるんですもの。
高飛車に言い放って、あっさり秋夜をリストから削除する。
ただ、それは負け惜しみになるであろうと、編集長は知っていた。
だって、文壇中捜したって、秋夜ほど若く眉目秀麗で高収入、ついでに浮気の心配のない男などいないのだ。
大抵、そんな男ほど早く他人のものになっているから、宝くじを当てるほどの確率で好条件の出会いは捜さなくては ならない。けれど。 「ま、がんばってねぇ」
あのバイタリティがあれば、なんとかなるかもしれないと、彼は密に彼女の幸せを祈ってみたりもした。
ついでに、周囲から浮きまくっているほのぼの夫婦の幸せもまた、一緒に。
「若人の幸せが、日本の明るい未来に繋がるからね」
確かに、その通りなのだろう。

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