32.


思いのほか悲しみは深く、怒りは淀んで心を凍てつかせる。
彼女の心臓が動いていないことを胸に耳を押しつけ確かめたディールは、想像していた激情に自分が囚われない理由を そんな風に分析した。
何もかも、どうでもよくなってしまったのだ。
忌み嫌われ蔑まれる事を定められた魂を救ってくれたヒナが、いない。
物言わぬ冷たい抜け殻はここに、この腕の中にあっても、笑い、泣き、怒った少女は消えてしまった。
残されたら底知れぬ怒りでありったけの魔力を暴走させ月を落とすと笑ったが、いざ直面した最悪の場面に彼は、 何かを考えることさえできずにいる。
怒りもなく、悲しみもなく、ただ亡骸に縋ることが全て。何も見ず、何も聞かず、ここで2人朽ちるに任せることが 唯一の望み。
「ヒナ…」
蒼白な面に苦しみの痕はなく、うっすら開いた唇は微笑みを湛えてさえ見えた。そろり、輪郭を指でなぞるとそっと髪 に鼻先を埋める。
「ずっと、そばに。貴女と共に」
そうした手放しの悲嘆を目の当たりに、ヘリオとラダーもまた動けずにいた。
感情を殺すことが生きることと同義であったディールはこれまで、滅多に人前で喜怒哀楽を表すことはしなかった。 いつでも人当たりの良い笑みを湛え、どんな雑言や嘲りにも耳を貸さず、ただそこにあるだけの存在。
数年前、初めてヘリオに会った日からそれは変わることなく、また人類の敵である忌み人に接するには情けが深すぎる 皇太子にとって、好都合な性質だった。
ヒナと出会ってからの日々で彼はいくつかの 新しいディールを主の前に晒していた。
無心に少女を求める子供っぽさや、怒りに頬を染める表情、そして…。
冥府へと連れ去られたヒナを取り戻すこともできず、手放しで嘆き涙を零す様はディールが大切な感情を取り戻した 証拠に他ならない。だが、
「…違うんだ」
絞り出した掠れ声は傍らのラダーに届き、先達である魔女は背に置いた掌で、唇を噛むヘリオに励ましを送る。
「ああ、そうだね…ヒナが死んじまったら元も子もない。あんたやあたしが好ましく思った今のディールがある為には 、あの子の存在が不可欠なんだ」
だが、運命とは非情だ。
辛酸を舐めてこれまでをきた男に、これ以上の苦難を与えるのであるから。
しかもこれは、誰にも動かせない命の宿命。唯一その法の外にいる娘こそが息絶えては、望みはない。
「…不思議なものだな。こうなってみれば『夜の娘』が失われた事実より、ヒナがいないことの方がつらい」
国を民を第一と考えてきたはずのヘリオは、顔を歪めて只人としてのヒナの死を悼む。公人と私人とが己の中でせめぎ 合う苦しさの中。
「それが、人さ。あんただってほんの少し自分の嘆きに身を浸す権利くらいある。王子に戻るのはその後で充分だろ」
悼もう、ヒナの死を。その現実を。
一方、消えた命の影で、新たに誕生した命もある。
いや、正確には生まれ直したとでも言うべきか。
黒き魂の欠片を飲み込んだ真新しい肉体は、そろそろと確かめるよう指を動かし感触を確かめた後、ゆるりと瞼を上げた。
白磁の肌に映える深海色が光を捕らえ、音も立てぬ悲しみに惹かれ頭を巡らせる。
流れ落ちる白髪が漆黒の肌をした男を彩り、頬ずりする小さな少女の力なく落ちた腕が現状を語り。
(あの娘…死んだのか)
虚空に抜けようとしている淡い輝きに、そう理解した。それは少女の額から緩い螺旋を描き、細い尾を引いて肉体を離れる 寸前に見える。
何度も出会った臨終の瞬間で、だからこそ『彼』は無意識にまだ幾分自由にならぬ体を起こし、彼女に近づいた。
まだ間に合う。崩壊を止め、狂った運命を正すのは。
「どきなさい」
揺るぎない声、毅然とした態度、何より表情が既に他人のモノで、呆然とディールは、ヘリオとラダーは見詰めるよりない。
自分と同じ顔をしているはずなのに、ヒナが造ったのはセジューであったはずなのに、『彼』はだれだ?
見知ったあの男ではなく、けれど同じ器で突然目覚め、超然と命じる。
「その娘、助けたくばどけと言っている」
逆らうことは、できなかった。
何故だかそうすることは間違っている気がして、外套を下にヒナの体を横たえると静かに身を引く。
だがどうしても離れることができず、ディールの未練が少女の指を握らせた。
「こうしていても、よろしいですか?」
なんの感情も映さず冷酷にさえ見える瞳でそれを追っていた『彼』は、躊躇いながら問うディールに微かに頷くと、それ っきり外界には興味が失せたとばかり虚空を、丁度ヒナの額の上辺りを見据え動かなくなる。
他の3人には感じることもできない魂の波動が、薄ぼんやりと天に昇ろうとする動きが、ガラスの瞳に映って揺れた。
「まだ、お前の命運は閉じておらぬだろう…?死に急ぐな。皆嘆く」
その温もりを感じたなら、戻れ。
念じた想いを力に換え、発熱する指をヒナの額に乗せた『彼』は、見よう見まねで会得した呪を優雅に紡ぐ。
それは、命の魔女が操った力。
それは、命の魔女だけが操れた力。
それは…失われた太古の力。
くるりくるり。
螺旋は出でたのと逆を描き、滑るように少女へ還る。あるべき場所へ、現世の器へ。
「時はな…自然に満ち、誰が手にも止められぬものさ。それが、死。お前には巡っておらぬ、時」
自嘲の声を潮に、輝きは完全にヒナに戻った。
『彼』は顔を上げると、顛末がわからず呆然とした3人に手を伸べる。
「命はつなぎ止めたが生命力が足りん。そなた等から僅かずつ、奪ってもよいか」
誰に否やがあろう。例え立てなくなるほど力を渡せと言われても、即座に頷いたに決まっていた。
無表情の救世主は彼等の気概を受け、蜘蛛の糸ほどの光を3人に向け放つとその先を横たわったままのヒナに繋ぐ。
「指先に温もりを感じたら、娘を起こすがいい」
そうして、ヒナと指先を繋いだままのディールに告げると、ゆっくりセジューから消えた(・・・・・・・・・) 。まるで操り糸が切れるよう、表情も纏う空気も何もかも、一変して少女の傍らへと崩れゆく。
「一体…」
ラダーがその後を続けずとも、皆わかっていた。何物であったのが多くの謎は残るが、先ほどまでの短い間『彼』は 彼等の味方で救い人。一度は尽きたヒナの命を引き戻してくれた恩人。
アリアンサしか使い得ない魔術を操ることが何を意味するのか、霞の向こうに答えが見えていても今は目を瞑り、 次に現れる時まで忘却の淵に沈めておくのが良い。
それこそ多くを語らずに消えた『彼』の望みであろうから。時を語る、人の。
「…ヒナ?」
それぞれに湧く思いを噛みしめて長いようで短い静寂を過ごした頃、少女の指が小さく動いた。
ほんのり熱を発する指先と、頬にも自然な赤みが戻り、閉ざされたままだった唇が薄紅に輝いてそっと開く。
「う…よく、寝た…?」
待ち望んだヒナの一言が随分間の抜けたものでも、ディールは微笑んで抱きしめ喜ぶことができる広い心の持ち主だった。


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