30.


静謐な神殿内が歓喜の声で満ちるのを、若き魔術師は苦々しい思いで聞いていた。
『夜の娘』が神殿へ上がって一月と少し、薄曇りひとつ玉に与えることができなかった彼女が今朝唐突に、黒点を抱いた 玉を中央祭壇へ捧げたのである。
それは豆粒ほどに小さな夜であったが、本物であることは微かに揺らいだ月が証明していた。
強すぎる白光が一瞬、瞬きの隙を通して柔らかに輝き世界に夜の幻を見せる。
安寧の闇、恐れと夢を混ぜ込んだ漆黒の、焦がれて止まぬこれが、夜。
「…騒ぎ始めていた大臣達も、明日には沈静化するな」
祭壇の中央、据えられた玉の傍で不信の表情も露わなファーセオンに、音もなく近づいた将軍はあからさまな嘲笑を漏ら した。
「愚かしいことだ。国宝を自室へ持ち込むなどと許されざる罪を犯した女を咎めもせず、成果に目が眩むなど。我らの 監視が行き届かぬ場所で、一体玉に何をしたというのだ?一瞬見えた幻覚のからくりは?貴様、仮にも魔術師を名乗るの ならばさっさと謎解きをして、あのおぞましい魔女をここからつまみ出せ」
呪いの如く吐き出された言葉達は、今ここにあって異質でしかない。
国中が、いや世界が突如見えた救いに喝采を送る中、立役者を疑いあまつさえ放り出せとまで言うのだ。聞かれた 相手いかんでは切り捨てられてもおかしくない発言だろう。
ただし、それらはファーセオンの心情と酷似していて、死すのならば己も共に逝かねばならぬなと、自覚するが。
「貴方は、信じておられないのですか?彼の娘が起こした奇跡を」
人々が嘱望し続けた未来を垣間見せた女神を、だがガグラムは常と変わらぬ厳めしさであっさり切り捨てた。
「ワシが信ずるは殿下のみ。例え世界が否を言おうと、我が王子が是を唱えるのであれば付き従う。そこが地獄で あろうとな」
あの豪気で優しく人を惹きつける魅力を備えた王子を、無条件に信じる者は己だけではなかったなと、ファーセオンは 笑みを刷く。
新参者の自分は、宮殿に上がり地位を得て初めて殿下と会話することを許された。気取らず家臣を気遣う心に触れ、 一生ついて行こう、何があろうと自分だけはお味方であろうと誓い歩んできたが、将軍はそれよりずっと昔から、殿下を 慈しんでこられたのだ。
いやむしろ、彼が皇太子をあの人となりに育て上げたと言っても過言ではないと、聞き及んでいる。であれば将軍こそが 頼みの綱、最後の砦。
浮かれた国内に置いて唯一盟友となり、共に殿下の窮地を救いうる人物であろう。
なぜなら。
「司祭様は、彼女に『夜の娘』としての才が現れた以上信じぬ訳にいかぬと申されました。そうなれば、殿下こそ策を 弄し偽の娘を仕立て上げ、国を混乱に陥れようとした反逆者。早急に兵を出し討伐されるよう、陛下にご進言申し上げ るおつもりだとも」
すっと細めた瞳で告げられた事実に、将軍は僅か表情を動かしただけでさしたる動揺も見せることはない。
つい先ほど眼前で同じセリフを吐かれたファーセオンなど、怒りで視界が赤く霞み噛んだ唇から鉄錆の味がしたという のに。うっかり(・・・・)司祭殿をくびり殺してしまわぬよう、 疲弊するほどの精神力が必要だったというのに。
理解できずに眉根を寄せると、チラリと彼を見やったガグラムは煩わしそうに口を開いた。
「事が起これば狸爺が、いの一番に戦線離脱することなど分かり切っていたわ。あんなもの、端から信用しとりゃせん。 それよりワシが読めぬのは、貴様の忠義よ。盲目的な崇拝は表裏一体、望み通りの結果を相手から得られなければ 途端、激しい憎しみとなる。神殿に居座る『夜の娘』が本物の片鱗でも見せようものなら、殿下が嘘を吐いたと掌を 返すんじゃないか?」
背筋を凍らせるほどの殺気を含んだ将軍の声に、一瞬で頭の中が白く染まったのは恐怖を感じたからではない。
ファーセオンを支配するのは、目も眩むほどの怒り。先刻、やっとの思いで押さえ込んだ憤怒がせり上がり、止める まもなく溢れ出た。
「お疑いですか、私の殿下に対する忠節を!ならば今、司祭殿の首をこちらに持って参りましょう!!」
どこもかしこも怪しすぎる『夜の娘』に関する評価をいとも簡単に変えた司祭を、殺めてしまおうかと思ったのは僅か前、 あの激しい憤りは今もってファーセオンの内に息づいていて、殿下を裏切ることなどあり得ないと証明する為に日和見な 老人の血で手を汚すことを厭う気もない。
むしろ好都合、大義名分が立てば人殺しに正当な理由付けができるというものだ。
体格では到底敵わぬガグラムを射殺しそうな勢いで睨み付けるとファーセオンは彼の脇を通り過ぎ、とうに王宮へ向かった であろう司祭を追うため足を速める。
だがそれは、僅かも進まぬうちに無骨な指に阻まれた。
「待て、そのような顔をしていては事をなす前に衛兵に止められるぞ」
「ならば、彼等も倒すまで。…邪魔だてなさるのなら、貴方とて例外ではありませんよ」
囚われた二の腕を引き抜くこともせず、ファーセオンが小さく呪文の詠唱を始めると、 その本気に、身震いするほど冷たい激情に、ガグラムは吐息と共に潔い謝意を下げた頭に込める。
「すまなかった、貴殿の本意を試すような真似をして。ただワシには…殿下には、命を捨てられる覚悟を持った味方が 必要なのだ」
「…ガグラム殿…?」
それこそは、ファーセオンが将軍に求めたものと同じであると気づくまでさして時間はかからなかった。
「ずっと神殿に詰めていてはわからなかったであろうが、王宮内の騒ぎはここの比ではない。バルザリアの進言など必要 ないほど貴族、陛下は今回の奇跡とやらに心酔し『夜の娘』を盲信し始めておる」
苦々しく吐き出された言葉の持つ意味は、皆まで聞かずともわかる。
皇太子が罪人を伴い旅立った一月と少し前、神殿に入る娘を声高に偽物だと言い切り儀式を抜け出したのは、貴族達の間 で公然の事実であった。故にこれまでなんの力も示さない彼女を、皇太子派の者達は冷然たる態度で静観していたのだが、 彼等を根底から揺るがしたのであろう。あの奇跡は。
「…それでもとおっしゃって下さる方は、もうおいでになりませんか?」
余裕を欠いた将軍の態度と、口惜しそうに顔を歪める様を見るにつけ、有力者がこぞって敵に回ったことはわかっていた。 けれど、ファーセオンと同じだけ、いやそれ以上にヘリオを敬愛していた者もいたはずなのだ。
多分に諦めを含んではいたが、それでも問わずにおれなかったファーセオンにガグラムは自重するよう唇を歪めると2人、 有力貴族の名をあげる。
「だが、彼等とていつまで殿下を待って下さるか…ともかく、一刻も早くこの事態をお知らせせねば」
「ええ、そして本物の『夜の娘』と共にこの神殿にお戻り頂かねばなりません」
風雲は急を告げる。
水を求めるように夜を求める人々は、救い主を愚弄し辱める者に死の裁きを下そうとするほど狂い始めていた。
たった一度、ほんの一瞬示した奇跡がじわりと何かを壊して、深く昏い底へ、人々を導く…。


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